何が出来ますか、貴女の為に
文字数 2,575文字
「うむ、重畳、重畳」
片手を繋いだままの女の子が尊大に言った。
いつの間に、天井を覆った景色は消え、そこもかしこも真っ白なモヤの中に立っている。
足の下は相変わらず波紋の地面だが、モヤの遠くに薄っすら木立の影が見える。
今度は雲の中じゃない? 地上に戻れたのか? ネリは膝から力が抜ける気がした。
「クモの巣、やっつけたの? もう出てこない?」
「そうだな、お前が治めたからもう大丈夫だ。あとは大きな術力は漏らさぬよう隠して生きて行けばよい。よくやったな」
「はい、あの……その、色々と口から出ちゃって……」
「ハールートがお前の中に撒いた種は『怒り』であったか。本人が意識していたかどうかは分からないが、まぁきちんと仕事はしている」
「…………」
「お前はもっと自己中心に生きてもいいと思うぞ。溜め込み過ぎだ」
「…………」
ネリは女の子をマジマジと見た。すごく真面目な口調だ。煽っている感じではない。
作り物のせいか、表情は冷たくあまり動かない。でも聞いた事に返事はしてくれている。
「その、話せる所だけでいいから教えて貰えませんか。私、ちゃんと知りたいです。あのクモの巣、何なのでしょう? 誰かが蒼の妖精に悪意を持っているのですか?」
頑張って言葉を探して喋るネリに、女の子も口調を緩やかにゆっくりと話し始めた。
「あのオレンジのクモの巣は自然現象だ。嵐や、鉄砲水や、山崩れと同じ」
「シゼン、ゲンショウ……」
「蒼の妖精は自然界の理から外れているんだと、要らないモノだと」
「誰が?」
「だから自然界」
「…………」
蒼の妖精は、草原の民の要望に応じて飛び回っていた。『蒼の長への信仰』からの『民の心の平穏』へ繋がる循環を、継続させて行く為だ。
そういう形無き物は、途切れさせたら戻らない。だからひたすら草原の平和と安寧を願って、身を粉にして。
それが要らない事だったという。
(そんな理不尽な……)
酷いと思う反面、ネリは腑に落ちる部分もあった。
ハルさんに貰った革表紙の歴史書。読んでいく内に漠然と感じた。草原地方だけ歴史の流れ方が違う。激流にさらされ変化して行く他の地方に比べ、あまりに穏やかで動きがないのだ。
「平和が変化なくたゆたうのみの淀みだとしたら、いつしか水を濁らせる。川底を洗う激流も必要なのだ、時として」
「蒼の妖精が、護岸を整え河を穏やかにするのが良くなかったと、そのシゼンカイが言うんですか?」
女の子は苦笑った。
「お前は賢いな」
過ちもヒトの生い立ちに欠かせぬ物ならば、例えそれが取り返しのつかない犠牲であろうと、必要なのだ。そしてそれらを防ぐ善なる存在は、実は善ではなかったのかもしれない。
女の子の表情は、あくまで眈々としている。
ネリはいっぺんに色んな合点が行った。
蒼の妖精が、突然草原を飛び回るのを止めてしまった理由。
強い結界を張って、外で何が起ころうと里にこもってしまった訳。
「その、シゼンカイって奴の判断だと、草原の民は、蒼の里に見守られるよりも、指標なく欲望のままに発展している今の状態の方が、『良い』って事ですか?」
「そうなのだろうな」
女の子は小首を傾げて、視線を斜め下へ逸らせた。
「お前は、人間界から流入させて来た基準や法に守られている。教育を受けられ、発言を自由にし、将来の道も自分で選べる。便利で清潔で、生きる命の水すらも目の前まで運ばれて来る世界で」
「…………」
「成ってみれば、確かにそちらの方が『良い世界』だったのかもしれないな……」
長い睫毛を伏せる女の子の顔は、よく見ると無表情ではなかった。虚ろで寂しげな表情。
「あの、地面に下りられないって……」
「私は里の行く末を見守る為に時間を歪めて生きている。里の山茶花林の奥と、空の中、仮りそめの姿でしか存在出来ない」
「…………」
ネリの喉は言葉に窮する。
何を、今さら何を、このヒトに言ってあげられるのだろう。
ヤークトさんは、蒼の里が蓄積した知恵と知識を外界に役立てる『摂理』を止めたなら、蒼の妖精の長い寿命は必要なくなると仰っていた。事実、里の民たちの天寿は少しずつ短くなっているらしい。
長い寿命を前提に設計された種族だから、人口はなだらかに減って行く。昔は端から端まで馬が溢れていた厩舎も、今は手前しか使われなくなっている。
蒼の里は少しずつ、終焉に向かっているのだ。
「わた、私は……」
ネリは言葉を探しながら喋り始めた。
「私は、放牧地の横のあの道を、懐かしいと思いました。初めて来たのに、ここで生まれて育ったような気持ちになりました。きっと長い時間、誠実に積み重ねて来た歴史があるからだわ。
私は蒼の里が好き。まだ少ししか知らないけれど、もっと沢山知っても好きでいられると思います」
竜胆色の瞳がじっとネリを見つめる。
「ぜったい要らなくなんかない、要らなくなんかないです。私が言う、要るわ、有って良かったモノです」
女の子は黙ったまま、空いている方の片手を差し出した。
「え、あ」
ネリは白い細い手を見て戸惑う。
気軽に握ってはいけない、これを握る事には大きな意味があるように感じる。
「私は疲れるようになった」
「…………」
「里に結界を張っていても、すぐに息が切れる。お前のような者に
側に来て
貰えると、私はとても心強い」ネリは更に困惑した。
こんなヒトが自分を求めてくれるなんて、正直心が震える。
でも期待に応える器が自分にあるとは思えない。
ふと気付く。女の子の頬が冷たそうなのは、作り物だからではなく、生き物として衰えているのだ。
裏の家の老猫のいなくなる直前の生気の無さと同じで、静かに朽ちて行く者なのだ。
路地裏で、誰にも看取られず。
「あの、私に何が出来ますか? 貴女の為に」
女の子は静かに微笑んで、更に手を伸ばして来た。水の底のような瞳がじっと見る。
この手は縋り付きたいのだ。さっき自分が、足の付かない空間で何かに縋り付きたかったように。
ネリの手は、吸い寄せられるようにそちらへ伸びた。
「ダメ――――!!」
空間を裂いて黒い馬が駆け込んで来た。
「ネリ!」
鞍上に黒髪の少年。
懸命に身を乗り出して、ネリの伸ばした手を、自分が掴もうとする。
見開かれたシリウスの瞳と目が合った。
やっぱりキレイ・・と、どうでもいい事を考えてしまった。
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