雲海に立つ

文字数 2,266文字

    

 カンテラを掲げて、ネリとマミヤは、今来た尾根に戻る道を徒歩で登った。
 何か内緒の話でもあるのだろうか。やっぱり図々しくしない方がいいのかな。ネリは少しドキドキした。

 尾根に辿り着くと、さっきと違って山陵がほの明るい。朝陽がすぐそこまで来ているんだ。周囲も暗闇を脱して山様を現している。

「あちらから私たちは来たのだが」
 マミヤの指す方向を見て、ネリは顎が外れんばかりに口を開いた。
「ひああおっ」

 先程歩いて来た尾根道は、両側の崖が目も眩むほどに切り立ったナイフリッジ……いや、ギザギザのノコギリッジだ。星ばっかり見ていたから……

「あ、あんな所を歩いて来たの!?」
「そう」
 徒歩で歩けと言われたら絶対に腰を抜かして動けなくなる場所だ。
「博士、ネリが高所恐怖症だと聞いて、真っ先にここを思い浮かべたんだと思う。だから真っ暗な内に通ってしまいたかったんだろう」
「…………」
「私はここに差し掛かるまで思い至らなかった。今日の博士はやけに強行軍だなあ、ぐらいで」
「…………」
「ここを無事過ぎたら博士、気が抜けるんじゃないかなと、思った」
「そうだったんですか……」

 淡い栗毛の娘はまた責任を感じた顔で下を向いてしまった。
 マミヤはその様子を見て、思い定めたように切り出した。

「すまない、ネリ」
「はい?」
「博士に聞いた。ネリは博士が女性だとも知らず、ただ著書を見て好いていてくれたと」
「はい……」
 初対面で図々しく喰い付いて反省しています……

「今まで、女性学者に過分な憧れを抱いて、寄って来て掻き回して勝手に怒って去って行くような者が、一人二人ではなかったから……ほら博士、あんなだし」
「ああ」
 確かに大雑把すぎて、ちょっと心配な所はある。

「最初に冷たくしてすまなかった。ネリをあんな連中と一緒にしてしまって」
「えっ、いえ」
「博士はすぐにネリの真価を見抜いたというのに……私は助手として、全然、まだまだ、至らない」

 言って貰えたのは凄く嬉しいけれど、ネリはそういうのに慣れていなかった。実はマミヤもあんまり慣れていなかった。
 二人して言葉を出せなくてドギマギしていると、不意に光が射した。

「ネリ、あっちを見て!」

 言われた方を見ると、空と山陵の境目に金の筋を入れて、朝陽の先鋒が顔を出した所だ。
「きれい!」
 周囲に色が入ると、足下の谷が白い靄で覆われていた事を知った。それらが光を受けてみるみるオレンジに染まって行く。

「きれい、きれいきれい! わあああ、うわあ!」
「また語彙がなくなっているぞ」
 そう言うマミヤも声が上ずっている。

 と、オレンジの雲海が谷からどんどん沸き立ってこちらへ迫って来るではないか。大河の流れみたいに。

「空気が温まって風の流れが生まれたんだ」
「うわっ、うわっ、うわっ」

 谷一杯に溢れた雲が、自分達の立つ尾根まで上がって来て、足元ギリギリを流れて反対側へ落ちて行く。足首が冷や冷やする。
 雲海はますます色を増してまるでオレンジの雲の上に立っているみたい。

「うわあぁ、うわあ!」
「ネリ、運が良い。こんなの滅多に見られないのに。山の神様に歓迎されているな」

 マミヤを見ると、両手を大きく広げて風上に向かって胸を広げている。ネリも真似してやってみた。まるで大空に飛び立って行くみたいだ。ちっとも怖くない。

「あっちが三峰(みつみね)の第一峯(だいいちほう)」
 マミヤは、ノコギリッジに連なる頂を指差した。
 続いて身体を回して、「あっちが第二峯、あれが第三峯」と教えてくれた。

「三峰って山の名前ですか?」
「そう。アウトヘーベンからも見える三つ尖った峰。博士の故郷は第二峯と三峯の間の山懐」
「凄い、あんな所まで登ったなんて嘘みたい。マミヤさんもあそこ出身ですか?」
「いや。でも早く、生まれた土地よりあそこで暮らした時間の方が多くなって欲しい。そうしたら故郷と呼んでもいいだろ?」

 理由を聞こうとしたが、マミヤが本当に気持ち良さそうにうっとりと目を閉じたのでやめた。

 と、反対側を見てギクリとなった。
 明らかにヒトの立てない空中に……誰か居る!?
「や、ちょ、あれ、こっち見てる、お化け!?」

 マミヤも振り向いたが、すぐに「ふふ」と肩をすくめた。
「片手を上げて」
 言われた通り手を上げると、霧の中の
 その黒い影も手を上げた。
「あれれ」

「ネリの影が霧に映っているんだよ」
「ほえぇ」
 よく見るとマミヤの影も映っている。
「でもたまに上げた手と違う手を上げたり、人数より一人多く映っている事もある」
「ふほっ?」
「冗談だ、ネリ」
「……」

 山って凄い。ただ土が盛り上がって尖っているだけとは違うんだ。
 だってさっきまであんなにギクシャクしていたヒトと、今は喉やかに笑顔を向け合っている。


 二人が湧き水広場へ戻ると、博士はまだ丸まって寝ていて、栗毛挽馬が寄り添うように顔を寄せていた。

 ネリは真っ直ぐに自分のトカゲ馬に近寄った。その鼻筋にそっと手を添える。
「トカゲさん、ありがとう。あんな凄い道を、ネリを運んでくれて本当にありがとう」
 トカゲ馬は目を細めて喉を鳴らした。

「そんなに感謝するんなら、お礼に名前でも考えてあげたら? ずっとトカゲさんじゃ気の毒だろ」
 マミヤが携帯コンロで湯を沸かしながら言う。

「名前ですか、ええ……えーと ・・ゲレゲレ」
「振り落とされるぞ」
「だってこの子、撫でると喉がゲレゲレって鳴るんですよ」
「……」

「う――ん、ゲレゲレはちょっとなあ」
 博士が言いながら起き上がって、ふぬぬと伸びをした。
「二対一の多数決で差し戻し」









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登場人物紹介

ネリ: ♀ 草原の民 クリンゲルの街の中等学生 香辛料屋の娘。

歴史と書物が大好き。高所恐怖症、運動神経は壊滅的。

先頭に立ちたくないのに、誰も前に出ない時、仕方なく引き受けてしまう貧乏くじタイプ。

シュウ: ♂ 草原の民、クリンゲルの街の中等学生。貴族系富豪の一人息子。

学業優秀、理論派。一族の束縛に反抗心はあるが、家を守る義務感は持っている。

常にリーダーにおさまり、本人もそれが自然だと思っている。

ルッカ: ♂ 草原の民 クリンゲルの街の中等学生 シュウとは幼児からの親友。

蹴球(サッカー)小僧。大人にも子供にも好かれるコミュ力おばけ。

皆の接着剤的役割、そしてそれを自覚している。

キオ: ♂ 草原の民 クリンゲルの街の中等学生。町外れの牧場の子。

地味で無口。学校では空気のような存在。

一見気遣いタイプだが、己の信念はぜったいに曲げない。

チト: ?? 蒼の妖精 修練所の学生 ネリたちと同い年。

長様の執務室で小間遣いのバイト中。長さま大好き。

容姿が可愛い自覚あり。己の利点を最大限に生かして、賢く生きたいと思っている。

セレス・ペトゥル: ♂ 蒼の妖精 当代の蒼の長

長の血筋の家に生まれ、成るべくして蒼の長になった。実は一番面倒臭いヒト。 

ハールート: ♂ 草原の民 クリンゲルの街はずれの牧場主、キオの父親。

過去を洗うと埃と灰汁がバンバン出て来る闇歴史の持ち主。義理堅くはある。

キトロス博士: ♀ 三章『カラコーの遺跡にて』に登場。

考古学者。豪快で大雑把な現実主義者。

マミヤ: ♀ 『カラコーの遺跡にて』に登場。

キトロス博士の助手。この世のすべての基準がキトロス博士。


ツェルト族長: ♂ 『カラコーの遺跡にて』に登場。

キトロス博士の幼馴染。神経質でロマンチストな医者。

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