薄暮の馬車
文字数 1,802文字
気が付くと馬車に揺られていた。
遠くの山に夕陽が沈みかけて、辺りはぼんやりとした薄暮。
前方にバス道が伸びている。
その先に見える夕陽に光る屋根屋根は、自分たちの街だ。
いつの間にここまで帰って来たのだろう。
ネリはゆっくり左右を見た。
両隣には行きと同じように、シュウとルッカ。
二人ともこちらを見て、キョトンと目を見開いている。
「どうしたの、ネリ?」
「え、うん、ああ、夢? すっごいリアルな夢見てた」
二人の少年が女の子ごしに顔を見合わせた。
「夢っていつの話? ネリ、今の今まで喋っていたじゃない?」
「え、ウソ」
「嘘じゃないよ、急に黙ってキョロキョロし始めるから」
ネリは二人を交互に見る。からかっている風には見えない。
記憶にあるのは、白い空間で女の子に頼み事をされて……あれ、何を頼まれた?
「あ、あたし、どんなコト喋ってた?」
「なんだぁ? 大丈夫か?」
前で御者台に座るテオ叔父が振り向いた。
「俺もずっと聞いていたぞ。ヤークト爺さんと話した事とか帰り道が気持ち良かったとか、嬉しそうに喋りっぱなしだったじゃねぇか」
「…………」
「ネリ……?」
右隣からシュウが心配そうに覗き込む。
「あれ、シュウ、メガネ無い?」
「うん、霧の中で落としちゃった」
「え、大変」
「家に予備が一杯あるから大丈夫だよ……ってか、このやり取りも二回目なんだけど」
不安そうなシュウに、ネリは一所懸命思い出そうと頭を絞る。
「うん、帰り道……うん、気持ち良かった……」
確かに、五人で並んで歩いた風景が、ちゃんと頭に残っている。
「ね、ねえ、私、迷子になったよね?」
「うん、なったよ。でもすぐに林の奥のパォで見つかったじゃん」
ネリは更に頭をギュウギュウ絞る。
白い霧、誰だかの冷たい指……??
駄目だ、朝起きて夢を忘れてる時みたいに朦朧と思い出せない。
そう、黒い馬が来てくれた、キオの乗った黒い馬!
「キオ! キオが知っているわ、キオに聞けば……」
ネリは馬車の後ろを振り向いた。
しかし、行きはそこにいたキオの黒い馬が着いて来ていない。
「キオね、」
「キオは……」
シュウとルッカはまた困った顔を見合わせた。
代わりにテオ叔父が応える。
「あいつは蒼の里に泊まりになっただろ」
「え? そんな話してたっけ?」
二人の男子が呆れた感じで口を開く。
「厩掃除をやる為に残るって」
「居住区で馬を走らせた罰則だって」
「そ、それって私のせい……」
「だから気にしなくていいって何回も言ったろ。あいつが早合点で勝手に馬鹿をやっただけなんだから」
前方からテオ叔父が呑気な声音で言った。
「長殿も事情は分かっているから、怒ってはいなくて、他の子供に対する示しを付ける為だと。キオはハウスが大好きだから、泊まれる事になってかえって喜んでるんじゃないか?」
「……本当? 何で忘れちゃってるんだろ、私……」
混乱して真っ青なネリに、シュウがゆっくりと声を掛けた。
「長様が、禁忌のパォの悪い気にあてられたから多少の『記憶の混乱』が出るかもって仰っていた。こういう事だったんだな。毒気は何時間かで自然に抜けるから心配しなくてもいいって。大丈夫だよ、ネリ、明日には治っているよ」
「そうなの?」
「研究発表の事も忘れてくれたらいいのにな」
「もお、ルッカ!」
ネリは去って来た方向を見やった。
沢山の経験をした。いい事も怖かった事も。
ヤークトさんとの対話や幸せな帰り道、大切な記憶は忘れないで良かった。
……本当に?
まばらな記憶
白い霧、オレンジの光
……必死に握った冷たい手
腕を駆け抜ける衝動
ビイドロの奥の紫の、水底のような揺らめき
…… …… ……
本当に、失いたくない記憶がそこにはなかったのか……?
ネリはぼぉっと揺れに身を預ける。
キオに会いたい。はっきりした頭でお礼を言いたい。
明日には戻って来られるかな。放課後に牧場を訪ねよう。
そうしたら、抜け落ちた記憶を教えて貰えるかもしれない。
それから一緒に研究発表を作るんだ。楽しみ…………
結果を先に言うと、研究発表の場にいた班員は四人だった。
ネリは週明けに突然体調を崩し、肺炎まで併発して学校どころではなくなった。
シュウとルッカが頑張って立派な発表に仕上げてくれたが、ネリの取材メモを受けとれなかったので、彼ら独自の物にならざるを得なかった。
そしてキオは……帰って来なかった……
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