オレンジのクモの巣
文字数 2,177文字
ネリと紫の女の子、二人は街のすぐ上(下?)まで辿り着いて立ち止まった。
仲通りの商店街に夕げの買い物の人影がアリのように見える。
あちらからこちらは見えないのだろうか。見えても空の点だから鳥だと思うのかな。
案外今までも気付かなかっただけで、空にはイロンナモノが飛び交っていたのかもしれない。
いきなりクモの巣が方向を変えた。街の上空を舐めるように動き、郊外へと流れて行く。
そちらへ視線を滑らせると、天井に張り付いた緑の草原を一頭の黒い馬が駆けていた。
「ハルさん!」
見覚えのある背中と帽子。ネリは首が痛くなるほど天井を見上げた。
ハルは街を背に、懸命に馬を走らせている。クモの巣は彼一人に狙いを定めたようで、街を離れて速度を速めている。
「ハールートめが、自らが術力を振り撒いて、街からアレを引き離しているのか。ふん、今ごろ慌てふためいたって遅い」
ネリは首の筋に悲鳴を上げさせながら、疾駆する馬を目で追った。
引っ張られている風には見えない。でも馬には限界がある。
追い付かれたらどうなるの?
「お願いします、ハルさんを助けて」
紫の前髪の女の子は、片手を繋いだままネリをじっと見た。
「お前がやるのだと言ったろう」
「意地悪言わないで。最初の失礼は謝ります、何でも言うことを聞くから、お願い!」
「意地悪ではない。このクモの巣はお前の術力に応じて現れた。お前より大きな術力の者が手出しをするのはよくない。次に現れる時にその分頑丈になってしまうから」
「え? えっと?」
「過去にそれで失敗している。その法則が分かるまで、力の強い者だけが矢面に立って闘っていた。結果、相手を大きくしてしまうだけだった」
「…………」
何だか、ヒトが積み上げて来た争いの歴史に似ている。でも今は
「無理です。私、何も知らないのよ、やっつけ方とか、何も」
「手本だ、見ていろ」
女の子は空いている片手を伸ばして、逆向きに浮いている雲の一つに向けた。指を一本づつ握りしめると、白い雲がみるみる縮んで行く。
「この要領だ、やってみろ」
「ぇぇ……」
「四の五の言わずにやれ」
ネリは空いた片手を所在なく上げてみた。
術力を折り畳んだ自分に出来る事は、空気をパチンと弾く程度。それ以上の、折り畳んだ力を解放して何かをやろうとした経験なんて無い。そもそもどういう風に発すればいいのかも分からない。
案の定なんの手応えもなかった。
「ムリですぅ……」
「無理とか言うな。あんな大きなクモの巣は久し振りだぞ。お前がそれだけの術力を潜ませているという事だ」
「嬉しくないです ・・ぅあっ!?」
女の子と繋いでいる方の手が、ドクンと波打って熱くなった。
「ハールートがもう限界だぞ」
本当だ、ハルさんの馬は息を吐(つ)いてフラフラしている。帽子がいつの間にか飛んで、クモの巣を見上げる表情がハッキリと分かる。
私たちの事は見えているのかいないのか。
「あいつは、本当に、お前に何も教えなかったのか?」
「じゅ、術の抑え方……」
「それ以外」
「それ以外って……」
「思い出せ、何でもいいから」
もう一度繋いだ手が波打った。
『書物は読んでやると喜ぶ。その棚の主も喜ぶ。だからネリが居てくれて良かった』
『ホントっ!?』
『そうやって書物に没頭して俺が横に立っても気付かない様子、そっくりだな、その棚の主と』
『??』
『思い出させてくれる』
「むかつく」
ネリの口から言葉が転がり出た。女の子はびっくりしてネリを見る。
「ネリはネリなのに!」
「え、ああ、そうだな、お前はお前だ」
「何が思い出させるよ! 棚の主って誰よそれ! 知らないわよそんなの!」
「だから言ったろ、ハールートは結構ボンクラだぞ」
「せっかく記憶の隅に封印してたのに思い出しちゃったじゃないの どうしてくれるのよ! みんなみんな ネリの事知った風でちっとも分かってない! 知ってるのよ ネリを気に入ったんじゃなくただ利用する為に近付いた事とか 大事にしている風で実は手放したくないオモチャみたいな感覚でいる事も!」
「そうだな、(よく分からないが)お前は不当に粗末にされている」
「貴女もよ! 地上に下ろしてって言ってるじゃない 高い所嫌なのよ 平気なヒトには分かんないわ 下ろしよ 下ろして下ろして下ろしてぇ!!」
「すまないな、私は下りられないんだ」
女の子がもう一度手をギュッと握って来た。燃えるコークスのような熱が、ドクドクと身体の芯まで流れて来る。
「もっと腹から声を出せ」
「むかつくむかつくむかつく――!」
「もっと思いきり、おも・い・きり!」
「わああ! わぁぁあああ――!!」
肘の神経を弾くように腕が勝手に振れ上がる。
オレンジのクモの巣がちょっとだけ揺れた。
「握り潰せ!」
指を曲げる。今度は凄く重い、粘土に指を突っ込んでいるみたい、重い。
握る、この怒りで全部握りつぶしてやる。握る、握る握る、指も折れんばかりに、何度も、
ギュギュ、ギュギュ、ギュグウウ・・
縫い合わせた糸に引っ張られるみたいに、クモの巣が端から絡め取られて縮んで行く。
本当に掴めてる、私がやってるの?
最後の蜘蛛の巣が閉じる直前、こちらを見上げたハルの目が、オレンジ色を映して大きく見開かれていた。
唇が動いて三つの音が発せられる。
ネリは奮い立った顔のままそれを見つめていた。
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