煉瓦の平屋
文字数 1,722文字
三人が煉瓦の平屋の別宅へ戻ると、窓に灯がともって野菜を煮る匂いが鼻をくすぐった。
「家に誰かが待っていてくれるのは有り難いものだな」
博士が言って、ネリは自分の家を思い返した。
三年前に実家から独立して今の家に独り暮らししているが、まだ寂しいと思った事がない。もう少し大人になって沢山のヒトと知り合ったら、博士みたいに寂しさや有り難さを感じる事が出来るのだろうか。
(それにしても管理人さん、朝のあのペースで皿を洗って、夕食の準備が間に合うのか……凄いな)
家に入ると厨房で、老管理人はゆっくりと鍋をかき回していた。
台所はきれいに片付いて、朝の混雑の名残はない。寡黙なお婆さんは一日を無理なくのんびり自分のペースで働いているんだ。多分できない事はやらない。
地産野菜のシチューを頂き、ネリは外のポーチで今日使った道具の手入れを始める。
ふと屋根の裏の欄干を見上げた。古い板目に目を凝らすとそこここに、木彫りの猫が二匹三匹、まるで生きているように佇んでいる。この街の古い屋敷の屋根裏には大概あるんだと、昼間一緒に鍋を洗った地元のおかみさんが教えてくれた。
「あの家、この辺では結構な旧家でさ。元々は今管理人をやっているお婆さんの持ち物だったのよ」
「そうなんですか」
ネリは生真面目に婦人会の手伝いを続ける。
おかみさんたちは人数を増やして、ぽけっとしていて頼りなさそうな娘に、『親切』で色々『教え』てくれようとする。
「ちょっと前に税法が変わったでしょ。持っている土地や家に価値が付けられて、毎年税金を払わなきゃならなくなった奴」
「はい、お金持ちから税金を余分に貰う為の制度だと習いました」
「ここみたいに古い街だと、お金持ちじゃないのに先祖代々の土地があるヒトが一杯いてさ、もう本当に困ったのよ」
「あの時代に街がガラッと変わったわよね。古い家屋が取り壊されて、新しい商業ビルがどんどん建って」
「表通りとかすっかり知らないヒトの店ばっかりになっちゃって。うちの親戚もその時さあ~~・・」
「うちもさあ~~・・」
おかみさんたちはひとしきり喋り尽くした後、黙々と洗い物を続ける娘に顔を寄せた。
「だからあんた、あの女学者にだって気を許しちゃいけないよ。所詮私ら庶民の気持ちなんか分からないエリートさんだからね」
「そうなんですか」
「そりゃそうだろ、よそから来て先祖伝来の土地家を買い叩いて、元の家主を女中みたいにコキ使っているなんて。私らの感覚じゃ有り得ないわよぉ」
「まあ、どうせあんなボケた年寄りすぐ動けなくなるし、ボロ家に毎年税金払って、トンだお荷物を抱えちゃったもんだわね」
「そうなんですか」
ネリは余計な事は言わずにひたすら手伝いを続けた。
ヒトというフィルターを通すと印象は変わる。おかみさんたちは別に悪人ではない。こちらがちゃんと取捨選択をしてシンプルに、あった事だけを受け取っていればいい。
所々ツタの絡まる煉瓦作りの平屋。欄干の木彫り猫。
ネリはぼぉっと見上げる。
博士はこの平屋が好きだと言っていた。きっとあの古い猫や庭や子供部屋や、そこに生活するお婆さんごと好きなんだ……
「ネズミ除けの呪(まじな)い」
ボソッとした声に、ネリは振り向いた。
マミヤが自分の道具を持ってポーチに下りて来て、離れた所に腰掛けて手入れを始めた。
「この家には、あの木彫り猫みたいな昔ながらの意匠が沢山ある。居る間に探してみればいい。棚の書物など、何でも好きに見ていいらしい。管理人がそれを許している」
「本当ですか、それは嬉しいです」
「ただ、必ず元の場所に戻すんだ。ご老媼(ろうおう)はすべての配置を記憶している。あるべき場所に物が無いと逆鱗に触れ、食事の品数に響いて博士が悲しむ」
「は、はい」
「昼間の議論の続きをやりに来た」
「あ、はい」
マミヤは古い道具全般が好きらしく特に陶器に対する造詣が深い。聞けば何でも教えてくれる。口調は相変わらず固いけれどネリには嬉しかった。
書斎で手紙を書き終えたキトロス博士がふと見ると、山藤香る棚の下に今日出会った二人の少女が、少し距離を置いて小鳥のようにさえずり合っている。
この家に似合う光景だなと、瞳を細めてしばし眺めた。
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