貴女の道行きを照らせ
文字数 1,400文字
ルッカが何でいきなり話してくれる気になったのかは分からない。
調べ物を手伝ってあげたお礼にしては唐突だ。
でもとにかくネリは、帰宅するとただいまも言わずに階段下の自室に飛び込んだ。
机の引き出し、弟たちに侵略されぬよう鍵をかけて守っている革表紙の歴史書。
急いた手で、でも慎重に、最後の頁を開く。
ヤークトさんの書き込みの隣、白紙だった裏表紙に、ルッカが教えてくれた通り、新たな書き込みがあった。
長様が『学習証明書』にサインをした際に、「ついで」と言って、ネリの持っていた書物にもペンを入れてくれたと言う。ネリの記憶からは抜け落ちているが。
椅子を引くのもやっとの狭い空間に身を押し込み、心を落ち着けて机に向かう。
息を吐きながら見つめる、正面に開いた黒いインクの文字。
『貴女の道行きを照らせ』
少し浮き上がって見える、長様の気持ちが込められた文字。ネリはギュッと心に焼き付けた。
ルッカに教えられた手順、針で小指の先を突いて、赤い血の玉を黒い文字の上にかざす。
「記憶の書物よ、示しておくれ、現世の蒼の妖精で、一番チカラの強いヒト」
不思議がおこる。
赤い血が糸のように宙に伸び、黒いインクの文字と絡まった。そうしてまったく別の文字を形成する。
その名が引き出しの鍵だとルッカは言った。
――リィ・グレーネ ――
ネリは心が震えた。
五百年も昔の、伝承の名君。
***
――名君などではない――
突然、ネリの記憶に、聞き覚えのある無機質な声が響いた。
そうだ、覚えている、あの時、女の子は静かにそう言った・・・
***
白い空間。
突然飛び込んで来た黒い馬。
竜胆色の女の子はスルリとかわして、ネリと共に馬の反対側へ一足飛びに移動した。
鞍上のキオは、伸ばした手を空振りさせて前にのめる。
「ふん、馬を使ったか、小賢し……」
「うわあああ――!!」
次の瞬間、死角になっていた馬の側面から、何かが吹っ飛んで来てネリに激突した。
シュウ!?
ネリが今まで見た事もない、物凄い形相のシュウ。
何でどういう経緯(いきさつ)で、馬の脇腹になんかしがみ付いていたのか。
その一世一代のメガネ男子が、全体重でネリを女の子から引き剥がし、淡い栗毛を懐に抱えてゴロゴロと転がった。
途端、ネリの鼻に土と草の匂いが入る。
土の地面だ!?
下界らしい事にネリは安堵したが、シュウは自分を抱えたままガクガク震えている。
目を上げると、メガネが何処かへ行って、やはり見た事もない泣きそうな顔をしていた。
「シュウ君、馬に触れていて。馬具でも何でもいいから」
冷静なキオの声。
「キオ、この野郎! おいて行くなよな!」
らしからぬ乱暴な言葉を吐いて、シュウはネリを助けて立ち上がり、馬に駆け寄って胸繋(むながい)を掴んだ。
キオは、馬を下りて手綱を持ったまま、白い霧の渦巻く空間に対峙している。
そこにはもう女の子の姿は無かった。
代わりに、チラチラ光る小さな翡翠の欠片が、ぶら下がるように浮かんでいる。
さっきの女の子の本体が別な所に存在するのか、まさかその翡翠その物なのか、それは分からない。
「あなたは誰?」
――・・リィ・グレーネ・・――
ネリとシュウは顔を見合わせた。過去の歴史書で何度も見た名前だ。
「かの伝承の名君?」
――名君などではない――
もう姿は無いのに、ネリには、寂しそうな女の子の表情が浮かんだ。
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