メッセージ
文字数 1,767文字
「そろそろだ」
ずっと黙っていたキトロス博士が声を上げた。
そちらを見たネリは、彼女の琥珀色の肌がくっきりと照らされているのを見てドキリとした。
窓の向こうの二山の間が白んで、赤い欠片が顔を出している。
(ああ、夜明けか)
漠然と思って、すぐ我に返った。
ベッドに横になって自分は片時も眠っていない。まだ全然そんな時間じゃない筈。
「今、満月近いんですね」
横のマミヤがのほほんと言った。
「月ですって? あんなに赤いのが?」
「太陽と一緒で、奴ら昇りっぱなと沈みっぱなに自己主張する」
うっとりとした族長の声。
「月も太陽も同じ七つの色を持つけれど、地表の大気の中を長々と渡って来られるのはあの赤い色だけで」
「ふえぇ……」
「二人とも、あまり光を見るな。せっかく目を慣らしたのに」
博士に言われてネリとマミヤは慌てて窓から目をそらせた。でも言われた意味が分からない。目を慣らした?
「じゃあそろそろ壁を見て。もう貴女たちにも見えるかな」
ツェルト族長の声に、少女たちは反対側へ振り向いた。
そして驚愕の声を上げる。
月の光の届いた古い板の壁一杯に、絵模様が浮かび上がっているのだ。
***
先程の『踊る舞姫の絵』の丁度裏側の壁だ。
月の光に照らされて、暗い壁にくねった蛇の如き太い線が、まるで蛍光塗料で描かれたみたいに浮かび上がって行く。
月の光が増すにつれて、枝分かれした根のような線がグングン伸びる。それらの間に細々とした記号や文字も浮かぶ。まるで魔法のよう。
「『頂きは遥か雲上』……」
ネリが震える声で呟く。
「博士、これって!?」
赤い月光を背景に、美丈夫が朗とした声で答える。
「そう、あの茶屋の壁地図の後ろにあった地図を、そっくり丸々写した物だ」
月明かりに、ネリの隣のマミヤが息を呑んで身を乗り出すのが分かる。ネリ自身も駆け寄って鼻先で凝視したい気持ちだ。足元が危ないから出来ないけれど。
稜線から果実みたいな月がすっかり顔を出すと、地図は細かい地形まで分かる程にくっきりと姿を現した。今現在に出版されている地図と地形は同じだが、国境等が違う。おまけに現在の地図には載っていない『蒼の里』や『風出流山(かぜいずるやま)』等、失われた資料までが記されている。
「よく見ておけよ。じきに見えなくなる」
「えっ、そうなんですか?」
「月の赤い光に反応する塗料で描かれている。すなわちあの山の間の低い所から月が出る季節の、満月前後の今だけが、普通の者にも見られるピークだ」
「しかも霧もなくて晴れているのは、年に一、二度あるかないかの奇跡だからね~」は族長の声。
そ、それは確かに『誘ってくれればよかったのに』と責められる予感がした訳だ。
「わわっ」
ネリは慌てて地図を見直した。隅々まで目に焼き付けたい。
マミヤは足元も厭わず立ち上がっている。
「キトロスの先祖はイタズラ好きだな」
ツェルト族長が楽しそうに言った。
「お前の祖先でもあるだろ」
博士が言い返して、その後は黙ったので、ネリとマミヤももう口は閉じて、見られる時間いっぱい地図を見つめていた。
地図は、下界で復元されつつあるカラコーの地図よりふたまわりも広範囲だ。各地に支店のあるカラコー茶屋ならそれぞれの近辺地図で良かったろうから、これは支店を出す以前に書かれた物だろうか。
書かれている文字は、急登坂だの行き止まりだの道不明瞭だの、まさにそこを行き交う旅人の為の情報。そして北西の『風出流山』の空部分に、ネリの大好きな詩が書かれている。
――頂きは遥か雲上
峰々は氷を抱き
そこに息づく者あれど
地上のヒトの生業に
欠片の拘(かかずら)いも示さず――
月光の文字が懐かしい友達の声になって、ネリの頭に反芻される。
(イタズラじゃない)
ネリは思った。
イタズラだったら、もっと確実な場所に分かりやすく配して置く物だ。
舞姫に価値を感じない者が継いだら簡単に壊されてしまうし、限界集落になって住む者もいなくなったら人知れず崖下へ崩落してしまう。
とても低い確率をくぐり抜けてここへ辿り着けた者だけが受け取れる、そんな居るか居ないかも分からない未来(さき)の誰かへの、物凄く運任せなメッセージ。
「アウトへーベン……壱ヶ原の街で、最初に旅人の為に壁地図を描いたのは、三峰のヤンだったんですね」
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