竜胆(りんどう)色の瞳
文字数 2,637文字
引かれる、引っ張られる。
胴に回っていた長様の腕も、尻餅を付いていた床もなくなった。
そして真っ白、足の下も。自分の影がうっすら周囲に映っているだけ。
また霧の中? 落ちてる? 飛んでる? 回ってる?
「あわわ」
ネリは身を縮めた。怖い、地に足が付いていないのはとにかく怖い!
身体の周りを白いモヤが切るような冷たさで流れて行く。何が何だか分からない、横なのか下なのか、とにかく一つの方向へ身体が持って行かれる。
引かれる方向、モヤの向こうに何かがどんどん近付いて来る。オレンジの光、チラチラと、なにあれ?
「ひっ」
クモの巣だ!
オレンジ色の、大きい大きいクモの巣!
正確にはガラスに石をぶつけたような放射状のヒビ。それが白い空間を毒々しいオレンジで裂きながら、メキメキと枝を伸ばしている。
ヒビの集まった真ん中が砕けて空間を無視した穴が開き、向こう側は何も見えない真っ暗。その深い井戸みたいな暗闇へ引っ張られているのだ。
「やだあああっ!」
空を掻こうとして、左手が肩から動かない事に焦った。
違う?
左手は反対方向に伸びて、何者かに掴まれている。
今やっと気付いた。その手が奈落に落ちるのを防いでくれていたのだ。
ネリは懸命にその手を掴み返した。
疑う余裕なんかない、右手も伸ばして肘まで掴み、必死ですがり付いた。
(長様の手と違う?)
小さくて細くて冷たくて、木の枝みたいに心許ない手。それでも溺れる者のネリには大海の船のようだった。
細い手は思いのほか力強く、ネリの全体重を引き留めて、グイと引き寄せてくれた。手の持ち主の身体が正面に来る。
「・・!!」
子供!? 今すがり付いているのは、ネリより一回り小さい、女の子。
「術を隠さねば」
血の気の薄い小さい唇から、さっきのパォで聞いた声が発せられた。
「え、は?」
「あの『クモの巣』は、術力に反応して引っ張って来る。お前の術力を畳んで隠さねばならぬ、一時期、心を私に預けろ」
声の調子は相変わらず無機質だが、さっきのわんわん響く不快感はなくなっている。
「え、はい、でも……」
術を隠すって、術を抑える事でいいのかな?
「抑えるだけなら、自分で出来ます」
すがり付いてはいるけれど、まだ信用出来るか分からない。ネリは慌てて目を閉じて動作に入った。
ハルさんの訓練、頭の天辺から指先までのエネルギーをへその真ん中に集めて、折り畳んで折り畳んで、ギュウギュウ圧縮するイメージ。
細い手がガッシリ支えてくれているのでそちらに集中出来た。
小さく、小さく、ギュウギュウギュウ……
引かれる圧はだんだんに緩くなり、周囲の冷たいモヤは走るのをやめた。
目を開けるとオレンジのクモの巣はあるが、またたきを落として停止している。
「こ、これでいいんですか?」
「ああ」
正面の女の子の声に少しだけ色が着いた。
「ハールートに教わったのか?」
「はい、十歳の時」
「なんだ、奴はキチンと仕事をしているのか」
女の子はツイと横を向いて、ネリの質問を遮るように手を引いた。
「そっと離れるぞ。術力を漏らすなよ、また反応して追い掛けて来る」
女の子は静かに歩き出した。ネリは足元をふわふわさせたまま、繋いだ手に引かれる。
「あのオレンジの、『クモの巣』なんですか? さっきのパオの真ん中へ引っ張ったのもアレの仕業?」
「いや、パォの中心の引力は、クモの巣とはまったくの別物だ。あちらは昔から里に存在する力で、無害。クモの巣は・・形からそう呼んでいるだけで虫のクモの巣ではないが・・外から害なす物だ。引っ張り方がまったく違っただろうが……・・おっと」
足を躓(つまず)かせて、女の子の小さい身体がよろめいた。
「さすがにさっきのは体力を使った。お前さん、自分で歩けないか?」
見ると、女の子の足下にだけ水面みたいな反射があって、その上を裸足で踏んでいる。
水のような波紋が広がるが、足がもぐる様子はない。
「どうして貴女にだけ地面があるの?」
「お前は立てないか? 私が立てているのだから、お前だって立てると思うぞ」
そうかしら? ネリは水面みたいな波紋の上に足を伸ばしてみた。
靴の爪先にふにゃり、と感触。
両足を着けると、今着地したようにそこに体重が乗った。少しグラグラするが大丈夫っぽい。
「立てる、みたい、です?」
「では行こう」
二人は手を繋いだまま白い中を歩き始めた。歩く度に二人分の波紋が広がり、何処かしらから射し込む光にユラユラと揺れる。何歩か歩いて安心感が増すと、ネリの足元は固く安定して行った。
少し落ち着いて、改めて女の子を見る。
小さな白い顔に、ビー玉みたいな真ん丸い瞳、竜胆(りんどう)色の光彩。
同じ竜胆色の前髪がネリの目の高さを漂い、後ろ髪はチトより薄い水色が藻のように広がっている。
見た目は完全に幼い子供だ。無機質な大人の声が、かなりな違和感…… そう思っていると、女の子の方から切り出してくれた。
「これは今の私の肉体ではない。お前が安心しそうなカタチを作った。私が子供の頃の姿」
「そ、そうですか……」
ネリは返事に困る。気を回してくれたのかもしれないが、姿と声が合っていなさ過ぎて、申し訳ないが不気味だ。
(偽りの姿しか見せてくれないのは、信頼して貰おうという気がないのだろうか)
そうは思っても手を離す事は出来ない。この空間はあやふやで、身体があちこちに揺さぶられる気がする。離すと何処かへ飛ばされてしまいそう。
白いモヤの中を幾ばくか進み、オレンジは見えなくなった。モヤが薄まって明るくなった気もする。
女の子が立ち止まったので、ネリも止まった。
「済まなかったな。お前の眠らされている術力を見てみたくて、挑発して叩き起こしてしまった。あのカップを粉々にする力まであるとは思わなかった。あれはお気に入りだから守護を掛けていたのに」
「はあ」
ネリは呆れた返事をした。
あんな強引にグイグイ押し付けられたら、誰だってパニックになるじゃないの。
……って言うか、脅しにお気に入りを使ってはいけないと思う。
何だかこのヒト、偉そうにしているほど完璧ではなくて、何だったらちょっと抜けているのかも……
「まぁ、確かに私のカップを砕く程の術力。見付け出して手懐けたのは正道だ。その点はハールートはきちんと仕事をしている」
「仕事……」
言い掛けてネリは口をつぐんだ。耳を塞ぎたい。心がぐにゃりとする。
ハルさんの『仕事』って……なに……?
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