学者と夢想家

文字数 3,237文字

 
 黒い高い木の森を抜けて、ついに目的地に辿り着いた。
 山の谷間に突如現れる、広々とした河原。上流からの砂や石が大昔からタイセキしたキセキのようなテイエン、と過去に案内したガクシャは言っていた。
 谷の春霞に覆われて遠くはぼんやりしている。
 ポツポツと芽吹き始めた湿った土壌に、青やピンクの花が色を付けている。子供もこういう春の景色は好きだった。

「もう少し後なら風露草(フウロソウ)が見事なんだがな」
 言いながら荷物を下ろす女性は、ここは初めてではないらしい。こんな辺鄙な場所に何回も来るなんて変な奴、と子供は思った。

 広場の右奥は谷川になっていて、今は雪が詰まっている。半透明になっている下で雪解けの流れが激しい水音をさせている。更に奥、霧に霞んだ向こう側に大きな岩が何本か、尖った槍のように真っ直ぐ天に突き出している。ガクシャは『チュージョーセツリ』と言っていた。

「君らの祖先はあの塔の上に住んでいた」

 後ろから女性に言われて、子供は振り向かずに眉間にシワを入れた。
 あそこに住んでいた部族の子孫だから、ガクシャは自分らにガイドをさせる事に価値を感じるそうだ。
 そんなの自分に関係ない。
 そんな大昔の事知らない。
 今を生きなきゃならない自分に押し付けないで欲しい。


 ***


 雇い主の男女は、本日はここで宿泊予定。健脚なら日帰りの出来る距離だが、あの歩みの遅さなら確かにその方が無難だろう。
 勿論子供も一緒に泊まる。が、寝場(ねっぱ)は離れた所に一人用を設える。その為の天幕は自分で担いで来ている。

 女性は場所を選んでてきぱきと、シートを敷いてテントの設営を始めた。自分たちの為の装備は自分たち(主に彼女)で担いで来ている。ポーターを雇わないのも珍しいなと思った。

 男性は? 設営そっちのけで谷を勝手にうろうろしている。危なっかしい、あちらを見ていなければ。
 子供は集めていた薪を下に置いて、谷へ向かう男性の方へ駆けた。

「そっち行くな!」

 鳶みたいな声に、雪渓に足を掛けようとしていた男性は、不機嫌そうに振り向いた。
「ちょっとあの塔の根本へ行ってみたいだけだよ」
 確かに谷の細い所には白い雪が詰まり、一見渡れそうに見えている。

 女性は手を離せない作業をしているらしく、顔だけ上げて怒鳴った。
「雪渓には乗るなと言われたろ」
「でもぉ」
「ああ―― 君、ガイドさん、そのおじさんをあちら岸へ案内してやってくれるか。確か回り込む道があった筈だ」

 子供は小さく了解の返事をして、男性に対して別方向を指差して促した。
 男性はブツブツ言いながら引き返して来た。
 二人は、設営をする女性を残して、谷沿いを上流へ歩いた。
 一定の距離を取ってスタスタ歩く子供。しかし男性が遅れると立ち止まって待ってくれる。仕事はするがあくまで近寄りたくないって所だ。男性は肩を竦めて溜め息し、大人しく付いて行った。


 ***


 白い化石のような巨大な岩が、折り重なって倒れている場所に出た。それが谷に被さって、向こう岸へ行ける道を作っている。
 この瓦礫を上手く伝って行けば、あちらに見える群塔の下へ行ける。
 もっとも子供には取り残された岩が突っ立っているだけにしか見えず、ただただ無駄な労力にしか感じない。
 でも客の希望だ、仕事はこなさねば。

 あの貧弱な男性でも歩けそうな足場を探して、さて渡り始めようかと振り向いたら、彼がいない。

 慌てて引き返すと、岩を回り込んだ大分離れた所に、背中を向けてしゃがみ込んでいる。
「おい」と声を掛けても、背中は動かない。またヘバったのかと、子供は苦い気持ちで近付いた。

 尖った岩がゴツゴツと中途半端に地面から突き出している場所だが、男性の周囲には、ヒトがやっと運べるぐらいの大きさの石が、規則正しく並べられている。
 過去に来たガクシャが、塔の根元をホゴしていたボウゴヘキの跡だと言っていた。あちらの塔の根本にも同じような物がある。

「護ろうとしていたんだな。石を積んで」
 男性はしゃがんだまま古い石垣に手を当てている。

 ここにも大きな塔があったのが、倒れてあちらの谷に渡る瓦礫となった……とは、やはり過去にここへ来た誰かから聞かされた。だけれどどうでもいい事だ。どんな理屈を並べたって今はただの残骸でしかない。

 子供はしばらく無言で待ったが、男性がいつまでも石なんかを撫で続けているので、いい加減苛ついた。これから自分は薪を集めて火をおこし、夜営の準備をせねばならない。自分の寝床の準備もまだだというのに。とうとう声を出した。

「守ってもどうせ崩れてしまった」

 男性が止まって顔を上げたので、子供は更に言葉を投げ付けた。

「だってそんなちっぽけな、ヒトが積んだ石垣なんて、何の役にも立たない。大きな自然の災害の前では。何百年かに一度の嵐が来て、雨と土砂とが山の形が変わる程流れたら、もうそんな石垣なんか何の意味もなさなかった。無駄な労力だった。そんな事をやっている間に、子孫にもっと財産を残せば良かったのに」
 これは、子供の親や親族が、仕事の進められない雨の夜なんかに寄り合ってブツブツ言っている事だ。

 男性がしゃがんだまま身をひねって真っ直ぐに見て来たので、子供は言葉を止めた。
 怒らせてしまったか、でも怖い顔はしていない。
 ただ黙って薄い色の瞳で、子供の顔をじっと見つめている。
 このヒトは髪が真っ白だが、ふっさりとした睫毛も白いんだと思った。

 その睫毛を伏せて、男性は立ち上がった。
「君は戻っていていいよ」
 言って、スタスタと谷を越える瓦礫の方へ歩き出した。

「ダメだ!」
 叫んでも今度は男性は止まらない。面倒くさい。
「あちらの女のヒトが雇い主だ。あんたを向こう岸へ安全に連れて行けと言われた」
「一人で大丈夫だよ、これくらい」
「このくらいと言っている客ほど何かあったらすぐガイドのせいにする。そして難癖付けて賃金を踏み倒すんだ」
「キティはそんな事しないよ」
「ガクシャなんかみんな同じだ。大昔の事ばっかり大袈裟に崇めて、今そこに住んでいる者を踏み台ぐらいにしか考えていない」
「…………」
「ガイドは私だ、案内するのが仕事だ」

 男性が反論をやめて大人しく後ろに従ったので、子供はホッとした。よかった、つい言い過ぎた。
 あんなに沢山喋るつもりじゃなかった。今まで知ったかぶったガクシャにどんなに腹が立ってもグッと溜めて口を閉じていられたのに、何でかこの呑気な男性には本音が転がり出てしまう。

 瓦礫は確かに危ない箇所だらけで、平らに見えても砂が乗っているだけで足を置くと思いきり滑り出したり、浮き石が直角に動いたりする。子供はこの道は嫌いだが、あちらへ行きたがる客が多いので、ある程度の経路は頭に入れている。

 最後の岩を降りて、塔群の根元に着いた。雨季には川になる場所で、今でも年々塔は崩れて行っている。
 男性は塔のひとつの根元にしゃがみ込んで、また石垣に手を当てた。

「先に戻っていてくれ」
「ダメだ」

 男性は振り向いたが、今度はさっきと違って表情のある顔だった。
「君がプロフェッショナルなのはよく分かったよ。僕はここでしばらく一人でいたいから、陽が沈む少し前に迎えに来てくれ。勝手に危ない所へ行ったりしない、約束する」

 陽が沈むまではまだ大分ある。確かにそんなに長い時間付き合わされては堪らない。
「本当に谷に近付くな。山の方にもだぞ」
「ああ、谷の神に誓う」

 谷の神なんて言葉は聞いた事もないが、子供は了承して来た道を戻った。


 最初の広場に戻ると、女性は黙々と竈(かまど)を組んでいた。彼らの設営はすっかり済んで、何だったら薪集めも終わっている。
 連れが一人で残りたがった事を告げると、特に驚きもせず、案内の礼を丁寧に述べた。

「ツェルトは我が儘だから。手間をかけてすまない」
「ガクシャの我が儘には慣れている」
「あいつは学者と違うよ。ただの夢想家だ」
「ムソウカ……」
 また厄介人種のリストが増えた。


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登場人物紹介

ネリ: ♀ 草原の民 クリンゲルの街の中等学生 香辛料屋の娘。

歴史と書物が大好き。高所恐怖症、運動神経は壊滅的。

先頭に立ちたくないのに、誰も前に出ない時、仕方なく引き受けてしまう貧乏くじタイプ。

シュウ: ♂ 草原の民、クリンゲルの街の中等学生。貴族系富豪の一人息子。

学業優秀、理論派。一族の束縛に反抗心はあるが、家を守る義務感は持っている。

常にリーダーにおさまり、本人もそれが自然だと思っている。

ルッカ: ♂ 草原の民 クリンゲルの街の中等学生 シュウとは幼児からの親友。

蹴球(サッカー)小僧。大人にも子供にも好かれるコミュ力おばけ。

皆の接着剤的役割、そしてそれを自覚している。

キオ: ♂ 草原の民 クリンゲルの街の中等学生。町外れの牧場の子。

地味で無口。学校では空気のような存在。

一見気遣いタイプだが、己の信念はぜったいに曲げない。

チト: ?? 蒼の妖精 修練所の学生 ネリたちと同い年。

長様の執務室で小間遣いのバイト中。長さま大好き。

容姿が可愛い自覚あり。己の利点を最大限に生かして、賢く生きたいと思っている。

セレス・ペトゥル: ♂ 蒼の妖精 当代の蒼の長

長の血筋の家に生まれ、成るべくして蒼の長になった。実は一番面倒臭いヒト。 

ハールート: ♂ 草原の民 クリンゲルの街はずれの牧場主、キオの父親。

過去を洗うと埃と灰汁がバンバン出て来る闇歴史の持ち主。義理堅くはある。

キトロス博士: ♀ 三章『カラコーの遺跡にて』に登場。

考古学者。豪快で大雑把な現実主義者。

マミヤ: ♀ 『カラコーの遺跡にて』に登場。

キトロス博士の助手。この世のすべての基準がキトロス博士。


ツェルト族長: ♂ 『カラコーの遺跡にて』に登場。

キトロス博士の幼馴染。神経質でロマンチストな医者。

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