ネリと不思議な声・Ⅰ
文字数 1,734文字
(あれ? なんだっけ……)
取りとめもなくボォッと記憶をさ迷わせていたネリは、段々に意識を戻した。
蒼の里へ行ったんだっけ。もう街に戻ってしまったのかな、いや帰りの馬車の記憶がない、まだ帰ってないのか、今何刻?
長様に証明のサインを貰わなきゃ。失礼のないように挨拶をして ……ああ、テオ叔父さんにも何かお礼を考えなきゃ…… 帰ったら両親は遅いって怒るだろうな、遅くなるのは言ってあるけど、聞いていないみたいに怒るだろうな…… はあ……
(足が痛い)
感覚がはっきりして来た。
せっかく楽しい気分だったのに、嫌な事に頭を占領させていた。ダメダメ、勿体ない。家の玄関の一歩手前まで楽しい気分でいなくちゃ。
今、霧の中、惰性で足を動かしている。酷く疲れている、だるくて崩れそう。なのに足は止まってくれない。
やがて白い霧の向こう、一棟の小さなパォが現れた。
古くて表面が色褪せているが、ヒトの住んでいる気配がする。
入り口の御簾の前で足は止まった。
(え――と、どうしよう……)
自分がどうしてここへ来たのかも分からない。記憶は……みんなでポカポカした野道を歩いて、凄く心地良かった……までは覚えている。
入り口の布がフサリと揺れて三角に開かれた。
――どうぞ――
声がした? 気がした。
向こう側は暗くて見えない。
「あの、ごめんなさい、道に迷ったみたいで。長様の執務室を目指していた筈なんですが」
――よいよ、疲れたたろう、少しお休み、甘茶を入れてやろう――
今度ははっきりと聞こえた。
男か女なのかも分からない、それ以前に抑揚が変でヒトの声じゃないみたい……そう、キビタキの地鳴きみたいなリズム。
甘茶というのはどんなお茶だろう? 興味がある。それに座って休みたい。
でも
「ありがとう、残念だけれど、行かなくちゃ。きっと皆に心配をさせている。長様の所はどちらですか? 書類にサインを貰わねばならないの」
――長…… 今の長はセレス・ペトゥルか あのうつけ者、これを見落とすか――
「……あの?」
――ああ、案ずるな、奴の方からこちらへ来る。とにかくお入り。そんな風に追い立てられてばかりで、たまにはお前さんだってのんびりしたっていいじゃないか。お喋りでもしよう、そう、聞きたい事はないのかい? ――
「え……はい……」
自分は確か、歴史の学習の為にここへ来た。話してくれる事があるのなら、聞いておいた方がいいのかも。ヤークトさんも、沢山の口から意見を聞けと仰っていた。
何より、疲れた足が休みたがっている。
「では、お言葉に甘えて、少しだけお邪魔します」
入り口の御簾をくぐると、薄暗くてよく見えない。でも天井から透けて明かりは入っている。目が慣れると、壁際に小さな猫足家具があるのは分かった。
しかしネリはゆっくり見回している暇がなかった。足が勝手にぐんぐん歩いて部屋の中央まで来てしまったのだ。初めてのお宅でこれは失礼過ぎる。
「す、すみません、足が」
――よいよ、よいよ、随分と素直な足じゃ――
小さな猫足椅子がひとりでに動いて、ネリの横へ来た。
お茶の乗った小机も後から付いて来た。西方の皿つきカップから今淹れたばかりな甘い湯気が立ち上っている。
声の主は見当たらない。
――お掛け。このパォの中心は蒼の里の力の流れが交差する場所。たまにそれに反応して引き寄せられる子供がいる――
「あ、ありがとうございます。え――と、力の流れ? パワースポットみたいな物ですか?」
ネリは怖々と、椅子を押さえながら座った。途端、粘土を引き摺っていたようなだるさが抜けて、足がスッと楽になった。
――お前さんたちはそう呼ぶかの――
「私、クリンゲルの街から来たネリという者です。他所の種族でも引っぱられる物なのですか?」
――祖先に蒼の妖精の血が一滴でも入っておるのじゃろう。我らの血は濃い薄いではないので。お前さん、術の力はどうじゃ?――
「えっと、少しありますけれど、本当に少しです。ハルさんが指導してくれているし……」
――ハールート! なんだ奴の管理下か、忌々しい!――
「…………」
ネリは黙った。このヒトに気を許してもいいのだろうか。名乗ってもくれないし、変なリズムの声が頭の中でわんわん響く。
(ログインが必要です)