第十九章 裏切りの始まり  第一話

文字数 2,957文字

 手のひらほどの大きさの川魚を大振りの包丁で三枚におろし、骨を丁寧に取り除くと、皮が付いたまま適当な大きさに切り、刻んだ生姜と一緒に黒酢と砂糖を水で溶いた煮汁に入れ、じっくりと煮る。仕上げに蜂蜜をひとたらしして、浅い器に煮汁と一緒に盛りつけ、ギダの葉を飾ったら魚の切り身煮込み(ギュカンタグ)の完成だ。

「うーん、さっぱりしていていいですね」

 煮汁をちょっと舐めてマァヤが褒めた。

「蜂蜜を入れるのが

なんだよ。宮中の黒酢はいいものが揃っていて迷ったけど、これが一番あうと思ったんだ」

 得意げに、しかしあくまで純朴に答えたのは、今年の試験で宮中へ入ってきた料理人、トックだった。

 あの騒動の後、王は最初から試験をやり直すことにした。一度目は筆記試験で落ちてしまったトックだったが、二回目で見事に合格したのだった。

 料亭の仲間たちはこぞって祝福してくれた。こんなに居心地の良い厨房を離れるのは惜しい気もしたが、なんといっても国中の料理人が憧れる宮中だ。受かったのなら入るに決まっている。

 彼は都の警備隊が所属する部署『勇栄(ソニパ)厨房』へ配属された。花形の部署ではないのかもしれないが、えり好みする気はさらさらない。

(俺みたいなのが合格できたのも、王様の試験改革があったからだ)

 もし従来通り民間出身者が『教味院(キョニウォン)』の人間の欠員補充であったなら、きっと合格できなかっただろう。

 そう思っている民間出身者の料理人は多かった。

「王様に試験制度を変えるきっかけを与えたのがヒョオルだったんだよ。あいつは俺たちと同じ民間の出だが、料理の腕も頭の冴えも宮中で一、二を争う。今はマショク王子様の料理人をしているんだ」

 ホンガルなどはそんな後輩たちにヒョオルのことを自慢して聞かせた。トックももちろんそれを聞いて、『建穏院(ケヨンウォン)』で見かける彼に尊敬と憧れを抱くようになった。

 そんな中、満を持して新王妃の即位式の日取りが決まった。

 新人たちにとっては初めての宴だった。

「こういう大きな宴は全ての部署の料理人が協力して料理するんだ。まぁ俺たちはちょっと手伝うくらいだろうけどな」

 朝礼ですべての料理人が集まり、宴について話し合う。初めての会議で緊張するトックにソッチョルはそう耳打ちした。

 キョンセが『建穏院(ケヨンウォン)』の庭へやって来ると、料理人も女官も頭を下げて出迎える。新参者のトックにとっては、同じ宮中にいるといっても、料理長は雲の上の存在だ。その姿が視界に入るだけで体が強張ってしまう。

「即位式は飢饉の影響で延期となっていた。王妃様ご本人はもちろん、王様を始め王族の方々も待ち望んでいた宴である。食材、味付け、盛り付け、全てを完璧にこなし、最高の宴となるよう力を尽くさねばならぬ」

 会議の前のこのような言葉はキョンセからしたら毎度言いなれたものであったが、新人たちは万に一つも間違いを犯してはならないと背筋を伸ばした。

 先に式典が行われた後、場所を移して宴が始まる。今回は王妃の即位式であるから、重臣はほぼ全員招待されるし、王妃の親族も、普段都にいない貴人たちも大勢招かれるので、食事の量はいつにもまして膨大になる。そのためホンガルの言葉通りとはならず、トックたち『勇栄(ソニパ)厨房』の者たちも重臣たちへの食事を担当することになった。

 それから、細かい献立を考えてゆく。重臣たちには基本的に同じ料理を作るが、それぞれが避けるべき食べ物や盛り付けがあるため、それを考慮して一人一人調整してゆく。

 ヒョオルは王族に出す食事のうち、菜膳(さいぜん)を担当することになった。飾り切りの腕を買われてのことだ。

「リトク様のお膳には水分の多い野菜はあまり使わないでほしい。お体が冷えやすいので、普段もなるべく避けているのだ」

 リトクの料理人からそう教えられると、ヒョオルは快くそれを受け入れ、反対に相談を持ち掛けた。

「盛り付ける器だが、リトク様とマショク様には同じものを使おうと思うがいいか?」

「しかし、リトク様の方が年長だから……」

「それはそうだが、ファマ王子様もいらっしゃるから。まだお小さいし、そんなに豪勢な食事は食べられないだろうが、それにしても年上の二人の食事に差をつけすぎると、その下のファマ様の食事はさらに格を下げねばならない。王妃様がそれを喜ばれるはずはないだろう」

 新たな王妃の気性は、既に宮中で知らない者はない。リトクの料理人もそれで納得して、自分の担当する魚膳(ぎょぜん)でも、なるべく差をつけないようにすると言った。

「それから、マショク様は確かウエは食べないのではなかったか? 他の方にはお出しするつもりだったが、別の魚にしようか」

「いいや、それはもう食べられるようになったので、出してくれて構わない」

 そのやり取りを遠くから見ていたトックは、他の人にも気を配って料理の格を決めるヒョオルの気配りに感心した。マショクが川魚ウエを食べられるようになったというのも、彼が工夫して苦手を克服させたのだろう。本当に素晴らしい料理人だと、ため息をつくほかなかった。

(俺はとてもあんなふうにはなれないだろうけど、運良く宮中に入れたことだし、少しでも料理人として成長しなくちゃな)

 そんなふうに張り切って宴の日を迎えた。

 式典が厳かに行われている頃、『建穏院(ケヨンウォン)』では食材を分けたり下ごしらえをしたりと、てんやわんやだった。宴で披露される出し物の中には、兵士たちによる剣舞などもあったので、彼らに振る舞う食事も作らねばならず、トックたちも大忙しだった。

 トックは菜膳(さいぜん)につかう野菜を飾り切りして蒸していたのだが、まだ火が通っていないのに、もう盛り付けが始まってしまった。

「なにちんたらしてんだ。もう少し火を強くしろ」

 ホンガルにどやされて、隣の竈から燃えさしを移して、団扇で風を送って火を大きくする。

「あ、強火で煮ろって言われているのに」

「ごめんよ。すぐに終わるから」

 火を取られてむくれるマァヤに謝りながら懸命に団扇を仰ぐ。蒸籠から漏れ出る湯気は少し多くなり、少ししてふたを開けてみると、どうにか蒸し上がったようだった。急いで盛り付けているホンガルの所へ持っていき、自らも盛り付けを手伝う。

「違う違う、その置き方じゃ、折角模様をつけた茄子が見えないだろう。こうだ」

 手伝った側からホンガルに手直しされ、おまけに茄子の表面につけた模様も、へたくそだと評される始末。仕上げに乾燥させた木の実を()り潰した調味料チマムを振りかけるのだが、三皿は振ってはいけないと言われていたのを忘れて、危うくすべてに振ってしまうところだった。

「トック、お前はそのまま魚のすり身の蒸し団子(チュギュモットク)を蒸しちまえ、兵士たちはもうすぐ出番が終わるからな」

 剣舞を披露した兵士たちへの食事には、魚のすり身の蒸し団子(チュギュモットク)もある。蒸し物をしていたから、そのまま作業を続けた方が効率がいいと判断されたのだろう。

 トックはすぐにすり鉢の中にある生地を丸くして蒸籠の中に並べていった。

「あれ、甘膳(かんぜん)に使う器はどこだ? 持ってきていなかったのか」

 必要な器は昨日のうちにトックが女官たちと一緒に、手近なところへ持ってきたはずである。漏れがあったらしい。

「今すぐ取ってきます」

 トックはマァヤに魚のすり身の蒸団子(チュギュモットク)の世話を頼むと、小走りで食器が置かれている部屋へ向かった。
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