第五章 料理勝負 第五話
文字数 3,020文字
料理長は、二人の出来に非常に満足しているようだった。
「私がまだ若かったころ、面倒を見てくれた料理人が、婚礼祝いの席に出す汁物を作る時、わざわざ湧き水を汲みに行った。水などで何が変わるのかと思っていたが、確かに味が変わった。それを覚えていたのだ」
サグは夜の客の食事を作る片手間に、そうジハンに語った。この日の彼は心無しか饒舌だった。
湧き水を使うのは、この料亭での経験から得た知識だったようだ。ルミヤは高級な料理にしか使われない技法を用い、己の知識技量を示したわけだが、料理長がより好意的に受け止めたのはサグだったように、ヒョオルには思われた。
(最終的に料理を食べて決めるのはタナク様だが、料理長も口を出すだろうから、一筋縄ではいかなくなった)
そして何より懸念すべきなのは、欲のないはずのサグが、昔の師匠の教えを持ち出して、勝利に色気を見せていることだった。普段の彼なら、こんな特別な方法は、一般の客に対して披露するだろうに。
「サグ殿も料理長になりたいのですか?」
ルミヤに頼まれて食糧庫に貝の乾物を取りに行ったとき、ちょうどサグと行き合ったので、ヒョオルは訊ねてみた。サグはぴたりと足を止めて、睨むようにヒョオルを見つめた。
「それとも都へ行きたいのですか?」
「なりたいとか行きたいとかではない。ただ己の技術の髄 を注ぎ、最高の料理を作った。それが認められただけだ。料理とは、食する人のためにあり、料理人はそのために技術を磨き、知識を増やすのだ。それこそしかるべき姿であり、評価されるべきだ」
ややあって、サグは静かにそう答えた。
「なるほど、己の野心のために料理している他の料理人やルミヤ殿が料理長になってしまったら、料理人の本分は守られないと、そういうことですね」
サグはの両目はわずかに見開かれた。
己の信念と腕に何の疑いも持たず、自信を持ってここまで歩んできた。だが、その信念を他の者に強要したことは一度もなかった。己の中で守り、精進してゆけばそれでよかったからだ。
ところが、その考えが変わった。きっかけは去年の秋口の、あの事件だ。原因はわからずじまいで、悪魔の仕業だと片付けられたのだが、そんなことで納得できるわけがない。あの事件は人為的なものであったと、なによりも確信していたのは当事者であるサグだった。
(欲を滅してひたすら励んでいただけなのに、腕を極めれば誰かの邪魔になるということなのか)
その誰かの正体も何となくわかっていた。あの時はあくまで仲間を疑わなかったが、日が経ち、事件を振り返るにつけて疑念は募った。そしていつしか、その疑念が真実だったのだという結論にたどりついたのだ。
そんな時今回の料理長選びが始まった。勝った者が都の店か『月香 』の料理長になる。自身は立身出世に興味はない。だが周りを見れば、みな地位を欲して狼のように勝利に執着している。
誰かが料理長に選ばれたとして、この店は、新しい店はいったいどうなってしまうのか。料理人の本分を全うするどころか、料理を野心を満たす道具としか考えていない者が、厨房の頂点に立つなど、あってはならないことだ。今のところ誰よりもその地位に近いと目される男など、尚更だ。
だから、勝つことにした。料理人とは何か、料理とは何か、正しい道を示し、邪念に捕らわれる者たちの目を覚まし、料亭をより良い方向へ導きたかった。
そんな内に秘めた思いを、ヒョオルは全て見透かしている。最近はルミヤに使われているというのに、なぜ心の内を読み取られているのか。少々恐ろしい。
「……仕事に戻れ」
ヒョオルは軽く会釈をすると、すぐに乾物を持ってルミヤの所へ戻った。サグはその背中をしばらく凝視していた。
(ここへ来た時から、尋常ではないと思っていたが……)
料理人としての才能は、誰よりも優れている。だが、その心は氷の中で赤黒い炎が燃えあがっているかのようで、少なくともサグの理想とする料理人の道を歩むことはなさそうだ。
その日の夜、料理長は皆を集めて、改めて料理長選びはサグとルミヤの二人で競い合うと告げた。
「課題は既に告げているが総膳六品 、タナク様ご一家が、新しい店の料理長と、『月香 』の料理長、二人がそれぞれどちらに相応しいか決める。
一人で六品作るのは手が足りないが、料理人が手伝ってしまうと、二人の真の腕前を量りずらい。そこで、二人は見習いを一人選んで、準備と当日の手伝いとせよ」
見習いたちの間に緊張が走った。見習いといえども、この競い合いに参加できるのは胸が躍ることだし、選ばれたら将来を約束された料理人から、その後も何かと目をかけてもらえるに違いないからだ。
勿論、多くの者はルミヤと手伝うことを希望していた。彼の方が都へ行く可能性が高いと誰もが思っていたし、こんな状況であっても、サグはとっつきにくいのだった。
サグとルミヤは暫し思案していた。見習いたちは俄 かに期待と不安を生じさせつつ、二人の決断を待っていた。
「私はジハンにいたします」
サグはそう決めた。皆から好かれていない自覚のある彼は、有能な者というより、不満を抑えて無難に手伝いを務めくれそうな者を選んだのだった。結果、いつも手伝いをしていて、あまり欲をかかないジハンを選ぶしかなかった。
「私は……」
選び放題であるはずのルミヤだが、彼は既に決めていた。彼が実は縛られていることを、誰も知らない。
「ヒョオルにいたします」
去年の秋の事件の真相を暴露しないかわりに、彼を都へ連れてゆく。彼もまたそのために尽力する。この約束がある限り、ここで彼以外を選ぶことなどできようか。
見習いたちは驚きと羨望、嫉妬の混じった顔でヒョオルを見た。労民 だからと爪弾きにされていたのに、近頃はなぜかルミヤに気に入られ、大事な競い合いでの手伝いに指名されるなど、彼らが心穏やかでいられるはずがない。
特に料理長の孫娘でありルミヤの一番弟子を自負していたチョウナは、あっというまに妬みで全身を赤くするほどだった。それでも、ヒョオルは悠然と佇んでいる。
「それでは、二人は前日までに献立を考え、私に提出するように。また、食材を買いそろえるために、資金を与える。食材の手配も手伝いと一緒に自ら行うこと。
なお、二人については、準備のために競い合い前日は非番とする。見習い二人も同様だ。また、見習い二人は手伝いがあるから、日頃の仕事は融通してやるのだぞ。
以上、何か質問が無ければ、解散とする」
皆頭を下げて質問や異議の無いことを示した。料理長が給仕長と共に休憩室の隣の部屋に消えると、皆パラパラと帰り支度を始めた。
チョウナはルミヤをつかまえて、なぜ自分が選ばなかったのか直談判した。
「お前より、ヒョオルの方が望ましいと思った結果だ。一人しか選べないのだから、文句をいうな」
「私より、あいつのほうが優秀だなんて! あんな労民 上がりの田舎者より、私の方がよっぽど力になれます」
「私にも考えがあっての事だ。それ以上駄々をこねるな」
とうとうルミヤに叱られて、チョウナは口をつぐんだが、まったくもって納得していないらしく、手近にあった魚の皮や骨をヒョオルに投げつけて、厨房から出て行ってしまった。
「ヒョオル、早速相談がある」
ルミヤはヒョオルを連れて食器が棚の側の調理台に移動した。サグも視線でジハンを呼び寄せて、水瓶や薪の置かれた隅の方で、相談をし始めた。
「私がまだ若かったころ、面倒を見てくれた料理人が、婚礼祝いの席に出す汁物を作る時、わざわざ湧き水を汲みに行った。水などで何が変わるのかと思っていたが、確かに味が変わった。それを覚えていたのだ」
サグは夜の客の食事を作る片手間に、そうジハンに語った。この日の彼は心無しか饒舌だった。
湧き水を使うのは、この料亭での経験から得た知識だったようだ。ルミヤは高級な料理にしか使われない技法を用い、己の知識技量を示したわけだが、料理長がより好意的に受け止めたのはサグだったように、ヒョオルには思われた。
(最終的に料理を食べて決めるのはタナク様だが、料理長も口を出すだろうから、一筋縄ではいかなくなった)
そして何より懸念すべきなのは、欲のないはずのサグが、昔の師匠の教えを持ち出して、勝利に色気を見せていることだった。普段の彼なら、こんな特別な方法は、一般の客に対して披露するだろうに。
「サグ殿も料理長になりたいのですか?」
ルミヤに頼まれて食糧庫に貝の乾物を取りに行ったとき、ちょうどサグと行き合ったので、ヒョオルは訊ねてみた。サグはぴたりと足を止めて、睨むようにヒョオルを見つめた。
「それとも都へ行きたいのですか?」
「なりたいとか行きたいとかではない。ただ己の技術の
ややあって、サグは静かにそう答えた。
「なるほど、己の野心のために料理している他の料理人やルミヤ殿が料理長になってしまったら、料理人の本分は守られないと、そういうことですね」
サグはの両目はわずかに見開かれた。
己の信念と腕に何の疑いも持たず、自信を持ってここまで歩んできた。だが、その信念を他の者に強要したことは一度もなかった。己の中で守り、精進してゆけばそれでよかったからだ。
ところが、その考えが変わった。きっかけは去年の秋口の、あの事件だ。原因はわからずじまいで、悪魔の仕業だと片付けられたのだが、そんなことで納得できるわけがない。あの事件は人為的なものであったと、なによりも確信していたのは当事者であるサグだった。
(欲を滅してひたすら励んでいただけなのに、腕を極めれば誰かの邪魔になるということなのか)
その誰かの正体も何となくわかっていた。あの時はあくまで仲間を疑わなかったが、日が経ち、事件を振り返るにつけて疑念は募った。そしていつしか、その疑念が真実だったのだという結論にたどりついたのだ。
そんな時今回の料理長選びが始まった。勝った者が都の店か『
誰かが料理長に選ばれたとして、この店は、新しい店はいったいどうなってしまうのか。料理人の本分を全うするどころか、料理を野心を満たす道具としか考えていない者が、厨房の頂点に立つなど、あってはならないことだ。今のところ誰よりもその地位に近いと目される男など、尚更だ。
だから、勝つことにした。料理人とは何か、料理とは何か、正しい道を示し、邪念に捕らわれる者たちの目を覚まし、料亭をより良い方向へ導きたかった。
そんな内に秘めた思いを、ヒョオルは全て見透かしている。最近はルミヤに使われているというのに、なぜ心の内を読み取られているのか。少々恐ろしい。
「……仕事に戻れ」
ヒョオルは軽く会釈をすると、すぐに乾物を持ってルミヤの所へ戻った。サグはその背中をしばらく凝視していた。
(ここへ来た時から、尋常ではないと思っていたが……)
料理人としての才能は、誰よりも優れている。だが、その心は氷の中で赤黒い炎が燃えあがっているかのようで、少なくともサグの理想とする料理人の道を歩むことはなさそうだ。
その日の夜、料理長は皆を集めて、改めて料理長選びはサグとルミヤの二人で競い合うと告げた。
「課題は既に告げているが
一人で六品作るのは手が足りないが、料理人が手伝ってしまうと、二人の真の腕前を量りずらい。そこで、二人は見習いを一人選んで、準備と当日の手伝いとせよ」
見習いたちの間に緊張が走った。見習いといえども、この競い合いに参加できるのは胸が躍ることだし、選ばれたら将来を約束された料理人から、その後も何かと目をかけてもらえるに違いないからだ。
勿論、多くの者はルミヤと手伝うことを希望していた。彼の方が都へ行く可能性が高いと誰もが思っていたし、こんな状況であっても、サグはとっつきにくいのだった。
サグとルミヤは暫し思案していた。見習いたちは
「私はジハンにいたします」
サグはそう決めた。皆から好かれていない自覚のある彼は、有能な者というより、不満を抑えて無難に手伝いを務めくれそうな者を選んだのだった。結果、いつも手伝いをしていて、あまり欲をかかないジハンを選ぶしかなかった。
「私は……」
選び放題であるはずのルミヤだが、彼は既に決めていた。彼が実は縛られていることを、誰も知らない。
「ヒョオルにいたします」
去年の秋の事件の真相を暴露しないかわりに、彼を都へ連れてゆく。彼もまたそのために尽力する。この約束がある限り、ここで彼以外を選ぶことなどできようか。
見習いたちは驚きと羨望、嫉妬の混じった顔でヒョオルを見た。
特に料理長の孫娘でありルミヤの一番弟子を自負していたチョウナは、あっというまに妬みで全身を赤くするほどだった。それでも、ヒョオルは悠然と佇んでいる。
「それでは、二人は前日までに献立を考え、私に提出するように。また、食材を買いそろえるために、資金を与える。食材の手配も手伝いと一緒に自ら行うこと。
なお、二人については、準備のために競い合い前日は非番とする。見習い二人も同様だ。また、見習い二人は手伝いがあるから、日頃の仕事は融通してやるのだぞ。
以上、何か質問が無ければ、解散とする」
皆頭を下げて質問や異議の無いことを示した。料理長が給仕長と共に休憩室の隣の部屋に消えると、皆パラパラと帰り支度を始めた。
チョウナはルミヤをつかまえて、なぜ自分が選ばなかったのか直談判した。
「お前より、ヒョオルの方が望ましいと思った結果だ。一人しか選べないのだから、文句をいうな」
「私より、あいつのほうが優秀だなんて! あんな
「私にも考えがあっての事だ。それ以上駄々をこねるな」
とうとうルミヤに叱られて、チョウナは口をつぐんだが、まったくもって納得していないらしく、手近にあった魚の皮や骨をヒョオルに投げつけて、厨房から出て行ってしまった。
「ヒョオル、早速相談がある」
ルミヤはヒョオルを連れて食器が棚の側の調理台に移動した。サグも視線でジハンを呼び寄せて、水瓶や薪の置かれた隅の方で、相談をし始めた。