第三話 嬉しき追放  第二話

文字数 3,020文字

 料理人の弟子として歩み始めた年の終わり、また帰省の時期が来た。

(あの飾り切りも試したいし、『食医事典(しょくいじてん)』も読みたいのに、あんな家に帰るなんて時間の無駄だ)

 今の彼にとって、家族は料理に劣る存在となっていた。

 しぶしぶ数人の使用人たちと屋敷を出て、重い足取りで田畑の中に寂しく建つ家へたどり着いた。

 降り積もった雪の重さにやっと耐えている粗末な家は、見るからに寒々しく、喜びや楽しみといった、人生を明るくするものが、一つもないようだった。

 見慣れた故郷のはずなのに、ヒョオルは少しも心を動かされなかった。むしろ懐かしく思い出されるのはヨクギ家の裏口と使用人部屋であった。

 戸口を跨ぐ前に、一応中へ声をかける。少し間があって、母のカッタが億劫そうに戸を開けた。

「ヒョオルかい」

 息子の顔を見た瞬間、母の両目に光が点った。

「戻ったよ。三日後にはお屋敷に戻る」

 手短に告げて、外よりは暖かい家の中へ足を踏み入れた。

 いつもの冬と変わらず、父のノラは囲炉裏の側で薄い酒を飲みながら、草鞋を編んでいた。長兄もそれを手伝っている。次兄はまだ戻っていないらしい。

 どうせ無駄な時間を過ごすなら、家族と会話して心をすり減らすより、黙って草鞋でも編んでいよう。そう思って履物を脱ぎ、囲炉裏のそばへ上がろうとすると、カッタがその腕を掴んだ。

「暖まる前に、出すものがあるだろう」

 ずいと手のひらを見せてきた。毎年同じやりとりをしているので、感情を動かす気も起きない。

 なにも考えずに風呂敷の中から給金の入った袋を取り出し、その手のひらに乗せてやった。

 カッタはすぐに金額を確かめる。腕を掴む手が外れたので、もう一度靴を脱ごうとすると、また掴まれた。

「なんだよ。金は渡しただろう」

 抗議すると、母は正面から向き合えるようにヒョオルの体の向きを変えた。

「これっぽっちの金、給金のうちに入らないだろうが。お前って奴は、家族を楽にしようっていう優しさをこれっぽっちも持ち合わせず、金の半分を隠し持って、へそくりにしようとしてるなんてね」

「何を馬鹿なことを。ちゃんと数えたのか? 去年と同じ金額だったろう。もう少し歳をとったら増えるだろうけど、今はそれで全部だ。隠し持つ分なんてありゃしないさ」

 毎年繰り返すこのやりとり。ヒョオルがうんざりして脱力すると、カッタはヒョオルの腕から風呂敷を奪い、乱暴に解いて床に落ちた僅かな持ち物を調べ始めた。

「やめろよ!」

 ヒョオルは止めようとカッタの腕や肩を掴もうとする。

 カッタはそれを振り払いながら金を探したが、荷物にないとわかると、息子の襟を掴んで、懐に手を入れてきた。ヒョオルは抵抗したがあっけなく、それは見つかってしまった。

「ほら見な! やっぱり隠してやがった。なんて憎たらしいガキだ」

 母の手に握られたみすぼらしい小さな袋は、給金の一部を入れて隠し持っていたものだった。

「お前が料理人の弟子になったってことは、あたしらも知ってるんだよ。当然、給金も増えるに決まってる。

 でかしたと褒めてやろうと思っていたのに、お前ときたら、弟子になったことも報告せず、給金は去年と同じだなんて嘘をつきやがって」

 どうやら、先に帰った近隣の村の使用人が、お屋敷での一件を話したらしい。その噂が広まったのか、ヒョオルが帰る前に、両親の耳に入っていたようだ。

 秘密にしようと思っていたのに、台無しだ。ヒョオルは一瞬使用人を恨んだが、誰が話したのかは見当もつかないし、噂を消すことはできない。それに今は噂の元となった犯人を捜している場合ではない。

「返してくれ、返せ、それは俺の金だ!」

 ヒョオルはカッタに掴みかかった。弟子の座は、己の頭脳と才能で獲得したものだ。増えた分の給金は、自らの稼ぎであって、親であっても奪うことは許されない。

 まして、親と呼べるかもわからないような奴に、絶対に渡しはしない。

「なんだこいつは、親を敬う気持ちがないのかい!」

 カッタも奪った金は絶対に放さない。二人は暫し取っ組み合っていたが、それをうるさく思ったか、ノラが立ち上がってヒョオルをカッタから引っペがした。

「親をだまくらかしてヘソクリこしらえようとするとは、悪賢いガキだ。お前が奉公に出たのは家のためだろうが、給金をそっくり家に入れるのは当たり前だって、殴られなきゃわからねぇのか!」

 襟首を捕まれたまま怒鳴られたが、ヒョオルはキッと目を剥いてノラに反論した。

「家のため? こんな家のために、誰が一年間苦労して稼いだ金を使うかよ! だいたい、家に入れたところで、全部父さんの酒代になるだけじゃないか。俺は酒屋じゃないぜ!」

「こいつ!」

 案の定、ノラに殴り飛ばされた。殴られるのは慣れっこだったが、今日は無性に怒りがふつふつと湧いてきた。

 優秀な使用人になれたのも、料理人の弟子になれたのも、全ては己の才覚と努力な賜物だ。

 他の使用人に付け入る隙を与えず、好機を逃さぬよう常に注意を張り巡らせて、大胆な行動も辞さずにのし上がったのだ。自分は優れている。

 少なくとも、こんな寂れた農村で文句を言いながら惰性で田畑を耕す両親などよりは、ずっと。なのに、なぜ殴られ奪われなければいけないのか。

「俺はもう料理人の弟子になったんだ。まだ手続きはしていないけど、いずれ身分は職民(ロムノル)にあがる。

 労民(ロムノル)職民(マクノル)どっちが上だ? これまでみたいに好きに殴れると思ったら大間違いだぞ!」

 たとえ親であっても、自分を侮り好き勝手に踏みにじることは許さない。そんな自尊心がヒョオルの中に生まれていたのだ。

 当然、両親はそんな息子の変化に気がつくはずもない。むしろ身分を振りかざして反抗したことが、火に油を注いだようだ。

「こいつめ、親を親とも思っていないな! 弟子が何だ、職民(マクノル)が何だ、身分が変わろうと、お前は俺の息子に変りないんだ。殴るのは俺の勝手だ」

 ノラはもう一度手を挙げようとした。だが、ヒョオルもやられっぱなしではない。出来うる限り抵抗し、殴り返しもした。

 取っ組み合いの大喧嘩に、家の壁や柱は、耐えられないと悲鳴をげた。

「くそったれ! 一晩、そこで頭を冷やしてろ」

 ノラは外へヒョオルを突き飛ばし、冷たい雪の上に転がした。急いで体を起こすが、既に戸は閉められていた。

「どうしてあんな恩知らずに育ったんだか。悪魔に(さら)われちまえばいいのさ」

 中からカッタが罵る声が聞こえる。

 上半身を起こした姿勢のままのヒョオルの上に、ちらちらと雪が降ってきた。だが、少しも寒いと感じなかった。憎悪と怨みの炎が全身を燃やしているからだ。

「望むところだ。喜んで魔物の世界に行ってやる。ろくでなしの家族に身を捧げるのが人間の生き方だというなら、悪魔の方がよっぽどましだ」

 戸口に向かって吐き出した言葉は、雪に吸い取られて静寂の中へ消えていった。

 誰にも侮られず、奪われず、踏みにじられずに生きたい。邪魔者は消し、害を加えられたら必ず報復する。そんな悪魔のような人生を、ヒョオルは強烈に望んだ。

 振り返って見れば、ヨクギ家での数々の行いは、全てこの渇望を実現したにすぎない。攫われるまでもなく、彼は既に悪魔として歩んできたのだった。

「いい気になるなよ。威張っていられるのも今のうちだ。今に悪魔がお前たちを取り殺してやるからな!」

 雪を蹴って立ち上がると、ヒョオルは家に背を向け、別の故郷へと薄暗い雪道を歩んでいった。
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