第六章 邪魔者  第四話

文字数 2,994文字

 菜膳(さいぜん)にかけた

にも、豚肉の煮込みの煮汁(ジョミユタグ)にも、牡蠣油(かきあぶら)が入っていた。ヒョオルは都に来てからずっと試行錯誤し、試験の日取りが決まってからは、その日に間に合わせるべく仕事を他の者に押し付けて、納得のゆくものを完成させたのだった。

「確かに、都では牡蠣油(かきあぶら)を料理に使う習慣がない。作れる者も多くないだろう。だが、私が知っている料亭の一つでは、やはりスジャンの料理人がいて、牡蠣油(かきあぶら)を作っていた。しかし、それはスジャンの味とは異なっていた。

 その者はやはり都とスジャンでは気候風土も全く違い、牡蠣(かき)は買えても他の調味料によって味が変わってしまうと申していた。なぜお前はスジャンの味を再現できたのだ?」

 ルミヤも大いに知りたいところであった。

 ヒョオルは少し勿体つけてから、その秘密を話し始めた。

「一つは水です。私は『月香(リウォソン)』で使っていた水の味を覚えていましたが、海が近く、土の状態が都とは違っているため、井戸水は同じ味になりません。ですが、水の源であったムホ山の水ならば、山を持つ都にも近い味が探せると思いまして、あちこち水を飲んでみたことろ、東の方の山の(ふもと)の井戸水がほぼ同じ味でしたので、それを使いました。
 また、少量の塩を入れているのですが、スジャンで作られた塩に限りました」

 彼の繊細な味覚を駆使して、スジャンの味にたどり着いたということだ。だが、水や塩だけでスジャンの味を再現できたのだろうか。

「最大の要因は別にあるのですが」

 ヒョオルはそこでちらりとトンジュの方を見た。

「それはお教えできません」

 朝廷の重臣で、王妃の後ろ盾、我が世の春を迎えているタナクに、最大の秘訣を教えないとは、怖いもの知らずだ。

「私がこの牡蠣油(かきあぶら)を完成させたのは、ひとえに店のためです。料理長を始め、この店の料理人は優秀ですし、幸いにして皆様からの覚えもめでたく、今のところは順調です。しかし、ただ旨い料理を出せるというだけでは、料亭がひしめき合う都で生き残ってゆくことはできません。

 そのため、私はこの牡蠣油を『梅月(ファリウォ)』の名物とすべきだと思ったのです。スジャンの料亭『月香(リウォソン)』から暖簾分けしたような存在ですから、スジャンの特色を持った料理を出すことが出来れば、他の料亭では味わえない料理を出す、唯一無二の店となれると思ったのです。ですから、この牡蠣油(かきあぶら)の作り方は、誰にも教えられません」

 その答えを聞いてタナクは機嫌を悪くするどころか、店のために困難を乗り越え牡蠣油(かきあぶら)を作成しただけでなく、店の将来を見据えて秘密は秘密であると言い切るその態度を讃えた。

「これは頼もしい料理人ができたな。このような有能な者がいれば、この店も安泰だろう」

「まことに、この者を店に連れてきた私も、鼻が高いですな」

 トンジュはタナクへの遠慮も忘れて豪快に笑った。

 試験の結果はもちろん合格である。こうしてヒョオルは晴れて料理人となった。ヨクギ家でマトンから見習いの座を奪ってから、ざっと七年経つ。野心の強い彼からすれば、この歳月は長かった。だが振り返ってみれば、この年月を平々凡々と過ごしていたわけではなく、着実に出世の道を歩んでいたのだとわかる。

 そして今は、店の名物を自ら作り上げて、それを試験で上客に披露し、己の能力を見せつけ、かつ店に多大な貢献をした。これでルミヤだけではなく、トンジュもヒョオルに一目置くようになるに違いない。

 そして常連客となっているタナクも、彼に強い印象を受けているようだった。上手くゆけばルミヤが狙っているように、『教味院(キョニウォン)』の推薦状をもらえるかもしれない。

「よくやった。これでお前もめでたく『梅月(ファリウォ)』の料理人だな。今すぐに重要な仕事を与えることはできないが、徐々に役職につけてやろう」

 試験が終わり、客が去ってしまったあと、ルミヤはヒョオルを労い、祝いの言葉を述べた。

「ところで、牡蠣油(かきあぶら)の一番重要な秘訣とは一体何なのだ?」

 その問に、後片付けをしていたヒョオルは素直に答えなかった。

「料理長に教えなくてはいけませんか?」

 当然教えてもらえるものだと思っていたルミヤは驚いて目を見開いた。

「料亭自慢の特別な料理の調理方法や、特別な調味料の調合方法などは、料理長と限られた役職の料理人にのみ伝えられ、ほかの料理人や見習いは知らないことが多いでしょう。料理人はいつまでもその店にいるわけではありませんからね。情報が漏れて他の店に真似されたらたまったものではないですし」

 さも当然のようにヒョオルの口から出てきた答えに、ルミヤは憮然として言った。

「私は料理長だから、知るべきだろう」

「それもそうですね。私が作ればそれでいいと思っていたので、作り方をお教えすることに思い至りませんでした」

 ルミヤが少々気色ばんでいるのに対して、ヒョオルは、うっかりしていたとでも言うような口ぶりで、あっさりと牡蠣油(かきあぶら)

を教えた。

「一番大切なのは煮る温度なのです。スジャンと違って一度乾物になったものを煮るわけですから、弱火でゆっくりと時間をかけて煮出します。夜は火を消しますが、なるべく冷めてしまわないよう、火鉢に火を入れてそこに置いておくのです。そうやって二日かけます。その後、塩と醤油を入れたら少し強火にするのです。この火加減が肝要です」

 ルミヤは頭の中でそれを反芻した。

「料理長はお忙しいですし、やはり牡蠣油(かきあぶら)は私が作ることにしたほうがいいのではないでしょうか」

「いや、この店の大切な調味料だから、私が作るべきではないか。作り方もわかったことだし」

「非常に手間がかかりますし、料理長のお手を煩わせるわけには」

「お前は、牡蠣油(かきあぶら)を私に作らせないつもりか」

 秘伝の調理法を独占していれば、店としても彼を尊重せざるを得なくなる。調理法を秘密にしようとしたのも、関わらせないのも、全ては料理長たる自分に牡蠣油(かきあぶら)という価値を与え無いためではないか。ルミヤはそう邪推した。

「滅相もない。それでしたら、料理長がお作りになればよろしいかと思います」

 ヒョオルはすんなり引き下がった。あくまでルミヤを脅かす意図はないという芝居だった。だが、ルミヤにはわかっていた。そもそも牡蠣油(かきあぶら)を作ったのも、全てはこの料亭でのし上がるために違いない。

「……わかった。早速教えられたとおりに作ってみよう」

 だが、ヒョオルには弱みを握られている。あまり強く出ると、過去のことを持ち出されて、せっかく掴んだ都の料亭の料理長という地位も、この先にある宮中の料理人という地位も失いかねない。ルミヤもここは堪えた。とにかく作り方を知っているのだから、作ればいいのである。

 ところが、ルミヤが作った牡蠣油(かきあぶら)は、ヒョオルが完成させたものと少し違っていた。

 ルミヤの作ったものも、十分に美味い。しかしスジャンの味そのものかと言われると、頷けないところがあった。

 その後数日かけて、火加減や味付けを少しずつ調節してみたものの、ヒョオルの牡蠣油(かきあぶら)からは遠のくばかりだった。

「少しだけ違いますね。火加減がうまくいっていないのでしょうか?」

 ルミヤはとうとうヒョオルを呼びつけて、味が異なる理由を問うたが、料理人の紺色の衣に袖を通したヒョオルは味をみても首をかしげるばかりだった。

「何度やっても同じだ。何かが足りない。お前、まさか他に秘訣があるのを隠しているんじゃないだろうな?」

 ルミヤはヒョオルを問い詰めた。
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