第七章 罠  第十二話

文字数 3,004文字

 一方、妓楼の方では、コムが牡蠣油(かきあぶら)を完成させていた。味を見ると、大体はヒョオルの作ったものを同じだった。料理人の教育を受けていないために、少し雑に感じる部分はあるが、食材は完璧であるから、ルミヤが作ったもののように、大きく何かが違うということはない。

「合格です。これで姐さんも立派な料理人ですよ」

「そうかい。これであたしも安泰だわね」

 コムは心底ほっとして笑顔を見せた。そこへキッタムが見慣れた衣を着た人物を連れて入ってきた。

「ヒョオルさん、『梅月(ファリウォ)』からお迎えが来たわよ」

 見れば『梅月(ファリウォ)』の見習いであった。

「ヒョオル殿、トンジュ殿がヒョオル殿が『梅月(ファリウォ)』に戻ることをお許しになりました。私を迎えによこしたんです」

 彼は尊敬するヒョオルが戻ることを、目を輝かせて喜んでいた。キッタムもこれで安心だと胸をなでおろした。

「あんたが料亭に戻っちまったら、あんたがくれた対価は価値が無くなっちまうんじゃないかい?」

 すぐに不安に駆られたコムの腕をヒョオルは撫でた。

「大丈夫。ここは都いち料理の美味い妓楼、向うは料亭ですから、それで問題ありませんよ」

 所詮コムが今から努力しても、きちんとした料理の技術を取得できるわけがない。料理人としてヒョオルと勝負するなど無理な話だ。だが、妓楼には料亭と違う楽しみがあるので、そもそも競合しない。料理人なみの腕を身につけなくとも、牡蠣油(かきあぶら)を使った料理だけで十分妓楼は潤うはずだ。

「わかった。だが少し待ってくれ、ここの店には随分世話になったから、礼をしなくてはな」

 ヒョオルは妓楼の庭にある蜜柑の木に果実が黄色く膨らんでいるのを見て、キッタムに取ってこさせた。そしてコムに皮をむかせると、自身は小麦に卵と水を混ぜて生地を作り、薄い鍋に油を引いて、円形に伸ばして香ばしく焼いた。

 蜜柑は適当な大きさに切り、皮も刻んで一緒に鍋に入れ、水と砂糖を混ぜて煮詰めた。同時に、牛乳と独特の苦みのあるミヨドの粉と香りの良いタハを刻み、トロリと滑らかになるまで煮込んだ。

 それらを焼いた生地の表面に縞模様になるように塗り、もう一枚生地を重ねて、長方形に切ってゆく。仕上げにシュラ砂糖を振りかけると蜜柑を使った甘餅(リュミナ)の完成だ。
 コムはそれを大きな皿に乗せて運んでいった。昼の仕事が終わって各々休んでいた妓女たちは、甘い菓子を見るなり客の前のような笑顔で群がった。

「作り方は覚えましたよね。季節になったらまた作ってやれば、皆喜びますよ」

 ヒョオルは割烹着を脱ぎながらコムにそう言い残し、見習いと一緒に妓楼を出て行った。

 見習いは進んでヒョオルの荷物を持った。殆ど手ぶらで白昼の歓楽街を歩む彼の姿は、一度料亭を追われた料理人には思えないほど堂々としたものだった。

 今日ヒョオルが帰ってくる。『梅月(ファリウォ)』のほうも落ち着いてはいられなかった。見習いたちは彼の帰還を今か今かと待っていたが、料理人たちは渋面で、幾度も溜息をつきながら彼が姿を現すまでを過ごしていた。

 特に心穏やかでないのは、スジャンからきた三人の見習いだ。ヒョオルの手下になったふりをして、その実ルミヤの手先として腕試しでわざと失敗を犯したのだ。ヒョオルがその裏切りを許すはずはない。帰ってきたらどんな仕返しをされるだろうかとひどく恐れ、何とか守ってもらおうとルミヤへ縋るような思いも抱いていた。

 そのルミヤは、ヒョオルに帰還を許した己の愚かさを憎み、どこまでも己を苦しめるヒョオルを深く恨んでいた。そして、彼が戻れば、更に苛烈な手段でいよいよ自分を追い落とそうとしてくるに違いないと、恐怖を感じていた。

 それぞれに思いを抱えた皆が待つ中、ヒョオルは夕方の仕事が始まる少し前、僅かに太陽が傾いた頃に、ようやく厨房に姿を現した。勝手口から現れた彼は、ちょうど後ろから差し込む明るい光の影になって、却ってくっきりとその存在を厨房に知らしめた。

 ヒョオルはゆっくりと視線を巡らせ、その場の皆の顔を見た。歓迎していようと歓迎していなかろうと、等しく全員を、怯むことなく見渡す。真にこの料亭の頂点に立つのは誰なのかと思い知らせるように。

 最後にルミヤと目が合った。彼も自分こそがこの厨房の長なのだと分からせようと、強い視線で対抗していた。

「この度はまた『梅月(ファリウォ)』に戻していただきありがとうございます。一度追い出された身でお迎えいただいたからには、身を粉にして今まで以上に働きます」

 微笑みながらヒョオルは言った。

「そうか。その言葉を聞いて安心した。私はてっきり、お前が一度追い出された場所になど、戻って来たくないのだと思っていた。なにより、お前の方から負けたら出てゆくと条件を決めたのだから、のこのこ帰ってくるのは、お前自身が望まないとな」

「そうですね、私も大手を振って厨房に入るのは気が退けましたが、トンジュ殿と料理長が、それこそ追い出された私でも戻ってきてほしいと強くお望みだというので、恥を忍んでここに立っております」

 二人の嫌味の応酬は、しばらく争いの絶えていた厨房に再び火をつけた。

 そこへ、少し遅れてトンジュがやってきた。


「ヒョオル、戻ったか。よし、では早速牡蠣油(かきあぶら)を作れ。切らしてしまっているからな」

 彼は何より先にそう命じた。ヒョオルは承諾して作業に入る前に、一言釘を刺した。

「まさか、これから私は牡蠣油(かきあぶら)だけ作っていればいいというのではありませんよね」

「そのことは後で沙汰する。それより、さっさと作らぬか」

「そうは言いましても、今後の事が気になります」

「ええい、わかった。後でお前の望む役職を与えるから、今はともかく作るのだ」

 トンジュはと牡蠣油(かきあぶら)を優先するあまり、軽率に口約束をした。

「ありがとうございます。その言葉、忘れないでくださいね」

 そう言うとヒョオルは見習いにこの店の料理人の服を要求し、奥で着替えて戻ると、やっと牡蠣油(かきあぶら)を作り始めた。

 彼はどんな役職を望むだろうか。ルミヤによって役職を与えられた者たちは、その座を追われることを恐れ、仕事に身が入らない様子だった。

 誰よりも恐れたのはルミヤだった。

(あいつは料理長の座を望むに違いない)

 少し前にヒョオルを追い出したのも束の間、今度はヒョオルに追い出されるかもしれない。ルミヤの切迫は他人の想像以上であった。

 何とかして抗わなくてはいけないが、もはや打つ手が無い。もし何か手を打てたとしても、牡蠣油(かきあぶら)がある限り敵は安泰なのだから、一時しのぎにしかならない。

 我が身を顧みれば、トンジュからヒョオルに劣ると判断されたのだから、薄氷の上に立っているような危うさである。料理人たちの支持があるとはいえ、ヒョオルが何かしらの役職についたら、彼らの心を奪いあっという間に厨房を掌握するに違いない。

 ヒョオルへの恨みは深く、できることならこの手でもう一度、今度は完膚なきまでにたたきつぶしてやりたいが、今のルミヤにはその術がない。そして未来に目を向けても、そのすべを得られるとは思えなかった。それほど、彼我の能力の差は開いていた。

(追い出されるぐらいなら、いっそ出てゆこうか。そうだ出てゆこう。惨めに敗北する前に、自ら栄光の階段を登ってゆけばいいのだ)

 まだ残された道がある。これが料理人として生き残るための唯一の道であり、またヒョオルを打ち負かす最後の機会であると、ルミヤは包丁を握り締めて強く思い定めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み