第三章 嬉しき追放  第十三話

文字数 2,995文字

 あくる日の朝。さっさと食事を済ませたクァトルは、数人の使用人を連れて役所に出かけた。土地の使用権を認めるには、一応手続きが必要なのだ。勿論、法で禁止されている行為ではないのだから、役所で(とが)められることはない。

 奥様は、最後の一瞬まで気が抜けないと、使用人たちを督して念入りに屋敷の掃除をさせていた。

 とは言っても、トンジュが屋敷へ来るのは午後で、夕食は別の場所で食べると言っていたから、料理人は茶菓子を用意するくらいで、さほど忙しくはなかった。

「もういいのか?」

「ええ、すっかり良くなりました」

「そうか……」

 セルトルは気まずくなって、苦瓜を刻む手元に視線を落とした。

 いきなり布団を剥ぎ取るのは軽率すぎたと、今になって悔やまれる。あんなことをされて、ヒョオルは不愉快になっただろう。ますます弟子と間の溝が深まったようだ。彼が何も言わず、ただ隣で調理に勤しんでいるだけでも、なんともいたたまれない。

 少し前までセルトルは弟子を信頼し、頼もしく思っていた。しかしヒョオルの師匠を超える才能と能力、さらに誰の風下にも立ちたくないという強い野心が、彼の心情に暗い雲を生んだのだった。

(今でなかったとしても、いずれはこうなっていた)

 ヒョオルはそう思っていた。彼は自身のことをよく理解している。

 さて、昼食が出来上がった。奥様と子供達が食事を始めて少しした頃に、ようやくクァトルが戻ってきた。役所で手間取ったようだ。とはいえ、必要な書類は手に入れてきた。この使用権利証文をトンジュに渡せば、パドゥル村を含む領地の一部、土地も人も、全てはトンジュの思うままになる。

 クァトルが慌ただしく食事を終えてから少し経つと、使用人の一人がトンジュの来訪を告げた。主一家も使用人たちも、昨日と同じように総出で出迎えた。

 トンジュも昨日と同じように堂々と門をくぐる。居並ぶ使用人の中にヒョオルの顔を見つけると意味ありげな視線を投げてきた。ヒョオルも一瞬黒い目をぎらりと輝かせて、それに応えた。他の者には気取られないような、一瞬の出来事である。

 トンジュとクァトルが客間に入ると、セルトルとヒョオルは厨房に戻り、茶菓子を用意し、給仕役に運ばせた。

 今日も輿(こし)を担いできたトンジュの使用人には、軽食が用意されていた。余り物を適当に調理して具とした、小さな焼き饅頭(ジャンチュドナ)である。ヒョオルはそれを届けると言って、厨房を後にする。

 物置の角を曲がると、そこにジヤが待っていた。ヒョオルがここにいるよう指示したのだった。ここは厨房からは死角になっており、誰からも見られない。

「いいか、言った通りにしろよ」

 そう囁き、焼き饅頭(ジャンチュドナ)の盆をジヤに渡す。ジヤは受け取ると緊張した面持ちで頷き、門の方へ向かった。

 ヒョオルはそれを見届けると、なに食わぬ顔で屋敷内を歩き、お嬢様の部屋の前へたどり着いた。

「あら、お嬢様は呼んでいないけど」

 パオは客人の世話係を任され、今も客間の脇に控えていた。お嬢様の側にはリヨンしかいない。

「お嬢様に話があるんだ。とても重大なんだ。取り次いでくれ」

 リヨンは首を傾げた。逆ならともかく、料理人である彼が自ら面会を願うほどの重要な用事とは何だろうか。何はともあれ、中に声をかける。

「通してやりなさい」

 許しが出たので、ヒョオルを連れて部屋に入った。
 ヒョオルは切羽詰まった様子で、お嬢様の前に座った。

「実は、困ったことになりまして、どうしてもお嬢様に助けていただきたいのです」

「助けるって、何にどう困っているの? はっきり言いなさい」

「それは……」

 ヒョオルは言い淀み、ちらりとお嬢様の傍らに座るリヨンを見た。

「あまり聞かれたくない話なんだ。(はず)してくれないか」

 リヨンは少し驚いた。いかに使用人だろうと、嫁入り前のお嬢様を男と二人きりにすることはできない。良家の娘ならば誰しもそうである。だからこそ、リヨンは幼い頃からお嬢様の側を離れず、パオといちゃついている時でさえ、傍らに侍していたのだ。

「外しなさい」

 お嬢様もそれは理解している。だがヒョオルを憎からず思っていたし、この端麗な見習い料理人が、何か無礼を働くようなことはないと、信頼していたのだった。

「お願いだ。お前の親戚を救ったと思って、一度だけ頼みを聞いてくれ」

 リヨンもヒョオルが故郷を差し出したおかげで、義理の姉の故郷が救われたくちだ。この一言はかなり効果があった。

「それでは、少しの間だけ」

 リヨンは静かに退出した。ヒョオルは座ったまま少し前に膝を滑らせ、お嬢様に近づいた。

「セルトルさんが私を追い出すと」

「何ですって? どうして突然そんなことに?」

 お嬢様も文机の向こうから身を乗り出してきた。

「昨日、トンジュ様が特に私の汁物を褒めたことはご存知でしょう。恐らく、それを妬んでいるのではないかと。

 ほら、以前、私がお嬢様に、甘膳(かんぜん)を作って差し上げた一件を覚えておいでですよね。実はあの後から、どうも私に対して刺々しい態度で……。

 昨日も私が気分が悪くて休んでいたら、仮病ではないかと疑ってきたのです。こういう気持ちが積もり積もって、昨日のトンジュ様の言葉がきっかけになったのではないかと」

「なんてこと!」

 お嬢様はころりとヒョオルの言葉を信じた。ヒョオルは目にうっすら涙を浮かべて続けた。

「全ては弟子の私の不徳の致すところです。ですが、今追い出されては、私は料理人になれず、職民(マクノル)になる機会を失います。そうなれば、トンジュ様が使用権を握る故郷の家族を助けることができません。

 私とて、家族に辛い思いをさせたくなかった。でも他の者の言う通り、私が職民(マクノル)になれば私の家族はさほど惨めな思いをしなくて済むでしょう。

 また、私が拒否して他の者の故郷が選ばれたら、その者がご主人様一家に怨みを向けるかもしれません。ですから私は故郷を差し出したのです。ですが、師匠に疎まれては、どうしようもなくなります」

 主一家と他の使用人たちを思いやり、自ら犠牲となった美談に、お嬢様はすっかりほだされたが、この件を持ち出されると、どうしても言っておきたい事があった。

「私はあなたを目にかけていたから、皆で話し合ったときだって、あなたの故郷を外すよう意見したわ。なのにあなたは私の気持ちを拒否したのよ。皆を思ってのことだとしても、今更私を頼って……」

 まるで恋人の不義を詰るような口ぶりだった。彼女の単純な心など、ヒョオルには全てお見通しだ。彼は潤み熱を含んだ瞳で見つめながら言った。

「はい。私はお嬢様を失望させました。皆のため、家族のため、これが正しい選択だと思っていました。ですが、お優しいあなたの心を傷つけてしまったと、心では悔いていました。お嬢様が私のために、あそこまでしてくださったのは、下の者への恩情とか哀れみだけではないと、わかっていましたから」

 切れ長の目に吸い寄せられるように、お嬢様は机越しにヒョオルの手を握った。

「私の心をわかってくれていたのね。そうとわかれば、どうしてあなたを助けないでいられるかしら」

「お嬢様、私と私の家族の運命はあなたにかかっています。あなたの情におすがりする以上は、私の全てをあなたに捧げます」

 手を握り返すヒョオルの端正な顔には、わずかに色気が滲んでいた。お嬢様はうっとりとその顔を見つめながら、手を引いてヒョオルを己の隣へ誘った。
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