第十七章 厨房補技 第十話
文字数 2,958文字
幸いにも、他の者たちも平静ではいられなかったので、ソッチョルだけが目立つことはなかった。
砂糖水で番号を振っていたなど、まるで誰かが原稿に細工すると疑っていたようなものではないか。同僚として良い気はしない。
彼らの剣呑な視線など気にせず、ヒョオルは立ち上がると官吏の手から原本を取って、キョンセに火を持って来ていいかと頼んだ。
キョンセはサユともう一人の料理女官に火を持って来るよう命じた。二人は燭台に竈 の火をもらってきた。
ヒョオルは原本の最初の一枚を取ると、右下の端を火にかざした。微かに甘い匂いがして、こげ茶色の一の文字が浮かび上がった。ヒョオルは二枚目と三枚目もやって見せてから、例の原稿を炙った。
「……ご覧ください。なにも出てきません。私が目を通した後のものであれば、三十二という数字が炙り出されるはずです」
念押しで、その前後の原稿も炙ってみると、三十一と三十三の数字があった。
「ということは、ピョク料理人が確認した後に、何者かが原稿をすり替えたということか」
「この事実を見れば、そういうことになります」
ただの書き間違いや見落としであれば、百歩譲ってまだ許せたのに、故意に原稿がすり替えられていたとは。王は怒りに震えていた。
「そのような不届き者が『建穏院 』にいるとは。余が民を救うために推し進めた事であるのに、それをこのような姑息な手でぶち壊しにするとは。そなたたちはそんなに『厨房補技 』を編纂するのが嫌だったか。だとしても、何の罪もない民を傷つけるとは、断じて許されぬぞ」
料理人たちは更に平伏して許しを請うた。王は怒りが収まらなかったが、お付きの者たちにしきりに宥められて、ようやくいくらか冷静さを取り戻した。
「とにかく、この部分だけ直ちに正しく書き直せ。そして直したものを元にもう一度写しを行うのだ。今までに写した分は全て捨てろ。
料理長、余は原稿をすり替えた者を決して許さぬ。罰を与えるつもりゆえ、早急に見つけ出すのだ。後で『衛宮署 』の官吏をやるから、一緒に犯人を探し出すのだ」
王は命令をすると足早に去っていった。残された者たちはじっと平伏して足音が去るのを待った。
「いったい誰がこんなことを?」
王が去った後、料理人たちは互いを疑い合った。多くの者たちは、いくら『厨房補技 』の内容に納得していなくても、ヒョオルが目立つのが不満でも、こんな陰謀はしない。だからこそ誰か知れない犯人を軽蔑したし、疑われるのも嫌だった。
「いや、そもそもおかしいではないか。なぜヒョオルは砂糖水で通し番号を振っていたんだ? まるでこうなることが最初からわかっていたようではないか。もしや、全て自作自演なのではないか」
ソッチョルは自分が犯人だと露見することを恐れて、ヒョオルの狂言だと主張した。
「私が自らやったと? 何のために? 皆さんが王様から叱られる様が見たかったとでもいうのですか? あいにくそんな趣味はありませんよ。
何事もなく『厨房補技 』が完成することが、私にとって一番よい結末だったということは、皆さんがよくご存じでしょうに。どうして私がわざわざ芝居を打つと思うのか、理解できません」
「ではなぜ、番号など振ったのだ」
「それは、皆さんが最初からこの書物に反対していて、私が指図するのも不服そうでしたので、何か嫌がらせでもされるかと用心していたのです。ここでは民間登用の料理人は、優秀でも認めてもらえませんから。私はそれを身をもって知っているのでね」
喧嘩腰なのはいただけないが、ヒョオルの主張は理解できた。
「とにかく、我らの中に犯人がいるのだから、我々で犯人を捜すのは得策ではない。官吏が来るのを待とう。今は急いで食事の支度に戻れ」
キョンセはひとまず皆を解散させた。
調理に戻ると見せかけて、ソッチョルはこっそりとサユを捕まえて、人気のない所で話した。
「まさかお前、全てヒョオルの罠だったのではあるまいな」
「ありえません。こんなことになるなんて私も驚いているのですよ。あの人は、なんて用心深いのか」
サユは苦々しく吐き捨てた。
「それより、今後どうするかを考えなくては。私はあの日執務室へ入ったところを人に見られていませんが、ソッチョル様は料理長を漬物蔵へ誘ったので、そこから怪しまれてしまうかも」
「料理長様に相談して、何とか誤魔化していただこう」
「ありのままを告げてはいけません。王様のお怒りをご覧になったでしょう。下手な事をすれば、料理長様も責めを負わされるのです。それを避けるため、私たちを差し出すかもしれません」
「ではどうすればよいのだ」
ソッチョルは青くなって慌てふためいた。サユは早口に対応策を囁いて、怪しまれぬようすぐに仕事へ戻った。
午後になって『衛宮署 』の官吏がやってきた。
「すり替えられた原稿の筆跡を調べれば、誰がこの原稿を書いたかわかる。その人物こそ犯人だ」
すぐさま鑑定士に筆跡を調べさせた。この原稿はサユが書いたもので、しかも用心してところどころ左手で文字を書いていたため、誰の筆跡とも一致しなかった。
「それでは、王様に提出する前に執務室へ入った者は」
「確認をしてからは、私が執務室で雑務をしていました。一時席を外して漬物蔵へ行き、戻ってきて少し仕事をしてから、最後はいつものように鍵をかけて退出しました」
「その間、料理長以外はいなかったということだな。では料理長が席を外した時に何者かが忍び込んだのか」
しかし、それを特定するのは非常に困難である。捜査は難航した。
それを見計らって、サユとソッチョルがキョンセに会いにきた。
「料理長様、犯人がわかりました」
「誰だ」
「誰というか……複数おりまして」
ソッチョルは仔細を語った。
「実は、『教味院 』出身の料理人の多くが結託して、ヒョオルを陥れようとしたのです。彼らは料理長が『厨房補技 』の編纂を受け入れた後も不満が消えず、この事業を失敗させようと画策しました。
筆跡を鑑定しても、誰とも合致しなかったのは、あの間違った原稿は、彼らが一文字ずつ交代して書いたため、誰の筆跡かわからなくなっていたのです。
彼らと私は同じ『教味院 』出身の料理人として仲間意識があったため、編纂中に参考にしたいと言われて、清書する前の原稿を見せたのです。内容はほとんど同じでしたから、それを元に偽の原稿を書いたようです」
「ソッチョルさんがそのことを思い出して、問いただしてみたところ、白状したというわけです」
サユが少し補ってやった。もちろん、これは全てサユの考えた作り話だ。
「それで、そ奴らの名前は。全員兵士に突き出してやる」
ソッチョルは適当に見繕った料理人たちの名前を述べた。もちろん全員冤罪だが問題はない。彼らを捕えさせなどしないからだ。
「あの者たちを兵士に引き渡してはなりません。それは料理長様の首を絞めることになりますよ」
「それほど大人数だと、私も責任を取らねばらぬからか。既にこんな事件が起きて、王様は深くお怒りなのだぞ。どのみち私もなんらかの処分を受けることになるのだ。その上犯人を隠しだてなどしたら、それこそ自分の首を絞めることになる」
「いえ、そうとも限りません」
ソッチョルは両手を胸の前で上下させて、キョンセの怒りをさまそうとした。
砂糖水で番号を振っていたなど、まるで誰かが原稿に細工すると疑っていたようなものではないか。同僚として良い気はしない。
彼らの剣呑な視線など気にせず、ヒョオルは立ち上がると官吏の手から原本を取って、キョンセに火を持って来ていいかと頼んだ。
キョンセはサユともう一人の料理女官に火を持って来るよう命じた。二人は燭台に
ヒョオルは原本の最初の一枚を取ると、右下の端を火にかざした。微かに甘い匂いがして、こげ茶色の一の文字が浮かび上がった。ヒョオルは二枚目と三枚目もやって見せてから、例の原稿を炙った。
「……ご覧ください。なにも出てきません。私が目を通した後のものであれば、三十二という数字が炙り出されるはずです」
念押しで、その前後の原稿も炙ってみると、三十一と三十三の数字があった。
「ということは、ピョク料理人が確認した後に、何者かが原稿をすり替えたということか」
「この事実を見れば、そういうことになります」
ただの書き間違いや見落としであれば、百歩譲ってまだ許せたのに、故意に原稿がすり替えられていたとは。王は怒りに震えていた。
「そのような不届き者が『
料理人たちは更に平伏して許しを請うた。王は怒りが収まらなかったが、お付きの者たちにしきりに宥められて、ようやくいくらか冷静さを取り戻した。
「とにかく、この部分だけ直ちに正しく書き直せ。そして直したものを元にもう一度写しを行うのだ。今までに写した分は全て捨てろ。
料理長、余は原稿をすり替えた者を決して許さぬ。罰を与えるつもりゆえ、早急に見つけ出すのだ。後で『
王は命令をすると足早に去っていった。残された者たちはじっと平伏して足音が去るのを待った。
「いったい誰がこんなことを?」
王が去った後、料理人たちは互いを疑い合った。多くの者たちは、いくら『
「いや、そもそもおかしいではないか。なぜヒョオルは砂糖水で通し番号を振っていたんだ? まるでこうなることが最初からわかっていたようではないか。もしや、全て自作自演なのではないか」
ソッチョルは自分が犯人だと露見することを恐れて、ヒョオルの狂言だと主張した。
「私が自らやったと? 何のために? 皆さんが王様から叱られる様が見たかったとでもいうのですか? あいにくそんな趣味はありませんよ。
何事もなく『
「ではなぜ、番号など振ったのだ」
「それは、皆さんが最初からこの書物に反対していて、私が指図するのも不服そうでしたので、何か嫌がらせでもされるかと用心していたのです。ここでは民間登用の料理人は、優秀でも認めてもらえませんから。私はそれを身をもって知っているのでね」
喧嘩腰なのはいただけないが、ヒョオルの主張は理解できた。
「とにかく、我らの中に犯人がいるのだから、我々で犯人を捜すのは得策ではない。官吏が来るのを待とう。今は急いで食事の支度に戻れ」
キョンセはひとまず皆を解散させた。
調理に戻ると見せかけて、ソッチョルはこっそりとサユを捕まえて、人気のない所で話した。
「まさかお前、全てヒョオルの罠だったのではあるまいな」
「ありえません。こんなことになるなんて私も驚いているのですよ。あの人は、なんて用心深いのか」
サユは苦々しく吐き捨てた。
「それより、今後どうするかを考えなくては。私はあの日執務室へ入ったところを人に見られていませんが、ソッチョル様は料理長を漬物蔵へ誘ったので、そこから怪しまれてしまうかも」
「料理長様に相談して、何とか誤魔化していただこう」
「ありのままを告げてはいけません。王様のお怒りをご覧になったでしょう。下手な事をすれば、料理長様も責めを負わされるのです。それを避けるため、私たちを差し出すかもしれません」
「ではどうすればよいのだ」
ソッチョルは青くなって慌てふためいた。サユは早口に対応策を囁いて、怪しまれぬようすぐに仕事へ戻った。
午後になって『
「すり替えられた原稿の筆跡を調べれば、誰がこの原稿を書いたかわかる。その人物こそ犯人だ」
すぐさま鑑定士に筆跡を調べさせた。この原稿はサユが書いたもので、しかも用心してところどころ左手で文字を書いていたため、誰の筆跡とも一致しなかった。
「それでは、王様に提出する前に執務室へ入った者は」
「確認をしてからは、私が執務室で雑務をしていました。一時席を外して漬物蔵へ行き、戻ってきて少し仕事をしてから、最後はいつものように鍵をかけて退出しました」
「その間、料理長以外はいなかったということだな。では料理長が席を外した時に何者かが忍び込んだのか」
しかし、それを特定するのは非常に困難である。捜査は難航した。
それを見計らって、サユとソッチョルがキョンセに会いにきた。
「料理長様、犯人がわかりました」
「誰だ」
「誰というか……複数おりまして」
ソッチョルは仔細を語った。
「実は、『
筆跡を鑑定しても、誰とも合致しなかったのは、あの間違った原稿は、彼らが一文字ずつ交代して書いたため、誰の筆跡かわからなくなっていたのです。
彼らと私は同じ『
「ソッチョルさんがそのことを思い出して、問いただしてみたところ、白状したというわけです」
サユが少し補ってやった。もちろん、これは全てサユの考えた作り話だ。
「それで、そ奴らの名前は。全員兵士に突き出してやる」
ソッチョルは適当に見繕った料理人たちの名前を述べた。もちろん全員冤罪だが問題はない。彼らを捕えさせなどしないからだ。
「あの者たちを兵士に引き渡してはなりません。それは料理長様の首を絞めることになりますよ」
「それほど大人数だと、私も責任を取らねばらぬからか。既にこんな事件が起きて、王様は深くお怒りなのだぞ。どのみち私もなんらかの処分を受けることになるのだ。その上犯人を隠しだてなどしたら、それこそ自分の首を絞めることになる」
「いえ、そうとも限りません」
ソッチョルは両手を胸の前で上下させて、キョンセの怒りをさまそうとした。