第七章 罠  第六話

文字数 2,978文字

 腕試しの準備が進む中で、ヒョオルはキッタムに会った。

「よくやってくれたな」

 ヒョオルはキッタムに風呂敷を渡した。中には高級な砂糖を使った菓子が入っている。

「腕試しは四日後に決まったそうね。これで料理長を追い払えるかしら?」

 菓子を受け取ったキッタムはいつもと同じ笑みを湛えながら言った。

「私はそのつもりだ」

 見習いたちは献立を決め、食材の買出しまで手はずを整えている。そんな彼らを邪魔しようと料理人たちが動いているのは明らかだった。つまりルミヤは彼らに失態を犯させて、勝とうとしているのだ。それならば、料理人の手出しを封じ、見習いに注意を促したヒョオルの方が、既に上手を取っている。勝てる自信は十分にあった。

「じゃあ料理長は私の口車に乗せられて、まんまと墓穴を掘ったってことになるわね。まがいなりにも最近まであなたを飼い慣らしていた人が、そんなに簡単に()められるもの?」

「なんだ、私が負けるとでも? だったら料理長に鞍替えしたらどうだ」

 珍しく不愉快を顕にしたヒョオルを安心させるように、キッタムはその肩に手を置いた。

「私はヒョオルさんに味方することに決めたのよ。この甘くて美味しいお菓子が、そのうち綺麗な衣になって、簪になって、豪華な調度品になってゆくって、私わかっているんですもの。都で芸妓として生きるからには、一番豪華な部屋に住み、一番着飾って、男たちを虜にして手玉に取るのが夢よ」

 半月型に細められた瞼の奥にある瞳は、黒々と怪しく輝いていた。彼女もまた、尽きぬ野心を持っているのだ。

「私のことも手玉に取るつもりか?」

「手玉に取られるような男じゃないくせに」

 キッタムはコロコロと笑って、座敷へ戻っていった。その姿を見送ると、ヒョオルは厨房に戻った。と言っても、調理を任されていないので、することといったら屑野菜で飾り切りの練習をするか、牡蠣油(かきあぶら)を作るかしかないのだが。

 しかし、この不本意な状況も、もうすぐ終わる。ルミヤを排除すれば、残った料理人も見習いも、自分の敵にはなりえない。そうなれば、もうこの厨房は手中に収めたも同然だ。ヒョオルは腕試しの日を心待ちにした。

 いよいよ、腕試しの日がやってきた。いつもは夜更けまで明かりがついているのだが、その日は店を早く閉めて、静まった料亭にタナクたち四人だけが残って、見習いたちの料理が運ばれるのを待っていた。

 料理人たちは皆タナクたちが料理を食する部屋の隣に集められている。いま厨房にいるのは見習いたちだけである。皆思い思いの場所に陣取り、ある者は(ふすま)の隙間から隣の様子を覗き、またある者は廊下を覗いて見習いたちが何を作ったのか確かめようとしていた。

 ヒョオルは隣の部屋が対面になる壁際に座っていた。彼の周りは不自然に空間が空いている。そして窓際にはルミヤが座り、周りには役職付きの料理人たちが集まっていた。ヒョオルはちらりとルミヤを見る。落ち着き払っている様子が少しだけ気になった。

 給仕たちによって、菜膳(さいぜん)が運ばれてきた。茹でたほうれん草を()りごまと甘酢で和え、付け合せに豆腐をつけたほうれん草の胡麻和え(タチムコッチル)だ。匙を使って丸く形を整えた豆腐の上に食用花と山菜が刺してある。非常に華麗な装飾であった。

 隣の部屋からも微かに料理を褒める声が聞こえる。料理人たちは旗色悪しとルミヤの顔色を伺ったが、彼はいたって静かで、ゆったりと茶を口に含む余裕すらあった。

 次に汁膳(じゅうぜん)が運ばれる。豚骨の汁物(ジョラクタン)。細長く切り、円がいくつか集まった形に結われた牛蒡や、花の形の人参、豆などが入っている。こちらも非常に好評なようだった。しかし、ルミヤは動じない。

 次に魚膳(ぎょぜん)が出された。魚の姿煮込み(ギュバッタグ)といって、魚のウロコなどを取り、腹側を割いて内蔵などを取り出したあと数種類の調味料と香草で煮込んだ料理だ。包丁を入れても、魚そのままの姿を崩さないように調理するので、技術が必要だ。

「ほう。少しの崩れもないな。流石は飾り切りが優れたヒョオルに教えられているだけある」

 タナクはそう褒めて、料理を口にした。

 その声と姿を(ふすま)の隙間らかのぞき見た料理人たちは、いよいよルミヤの敗色が濃くなってきたかと、顔に焦りを浮かべていた。

 ところが、その直後、隣の部屋からなにか焦ったような、そんな声が聞こえてきた。もっとよく聞こうと、料理人たちが(ふすま)に耳を当てたところで、給仕の一人がその(ふすま)を開け放った。

「一大事です、お客様がお倒れになりました!」

 ヒョオルは目を見張った。給仕の開けた(ふすま)の向こうには、トンジュが呼んだ商人の一人が。顔を赤くして、呼吸も荒く、座布団の上に倒れこんでいたのだ。

 料理人たちは急いで客のそばに駆け寄ると、医者を呼べだの薬を持って来いだの大騒ぎした。ヒョオルも大いに驚いて、大騒ぎする皆をただただ見つめるしかなかった。

 上の騒ぎを聞きつけた見習いたちは魂を飛ばさんばかりに驚いて、厨房の中で右往左往していた。

 給仕が走って連れてきた医者が客を看て、針を打ち、持ってきた薬を煎じて飲ませると、真っ赤だった客の顔は徐々に健康的な白さを取り戻してきた。

「どうやらこちらの方の体に合わない食材が入っていたようだ。速やかに処置できためしばらく休めば気分も良くなろう」

 医者は患者の容態が深刻にならずにすみ、穏やかに微笑んで帰っていった。しかし残されたタナクたちと料理人、そして見習いたちはこわばった表情で一堂に会していた。

「いったい何が原因でこのようなことが起きたのだ!」

 トンジュは原因を知る前から怒りをぶちまけた。見習いたちはただただ首を縮めてその怒鳴り声を受け止めるだけだった。

 ヒョオルは動転する頭をなんとか落ち着けて、思考を巡らせた。これはもう、ルミヤの陰謀としか考えられない。だとしたら、料理人の誰かが料理に細工をしたか、この客が受け付けない食材を入れたかしたのだろう。

 だが、献立の決定も全て見習いに任されていたのだから、この客が何を食べつけないか、料理人たちが知る由もない。それに見習いたちはよく注意を払い、料理人たちに一切手出しをさせなかった。それは戸惑いを隠せない料理人たちの様子からも見て取れる。

 料理人を使わなかったのであれば、ルミヤ自らが動いたのだろうか。

 そこへいつの間にか姿を消していたルミヤが戻ってきた、手には調味料のは言った小瓶を持っている。

「原因はおそらくこのチマムです」

 チマムは赤い小さな木の実で、乾燥させてすりつぶしたものを調味料として使う。献立を見るに、魚の姿煮込みのに使ったのだろう。

「チマム自体は何の問題もありません。しかしチマムと人参を一緒に食べると、希に体調を悪くする人がいるのです。『食医辞典(しょくいじてん)』には記載はありませんが、他の医術書に載っていたり、料理人の間で細々と伝えられています。それらによると、チマムと人参に反応する人の多くは、蟹や海老を食べつけないのだとか。もしやお客様もそうではありませんか?」

 トンジュが記憶をたどると、この商人が以前そんな事を言っていたのを思い出した。

「お前たちはこのことを知っていたのか?」

 トンジュが見習いたちを問い詰めた。彼らはとんでもない失態を犯したことを悔い、そして恐れ、あえて口を開く勇気もなく、トンジュの顔と左右の者の顔をとらとらと見ては俯くだけだった。
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