第九章 殺人  第七話

文字数 2,971文字

 ヒョオルは結果を見に行かなかったのだ。正確には昼間は行かなかった。料理長として忙しい日中に『梅月(ファリウォ)』を抜けるのを憚り、夜の仕事が終わったあと行くつもりだったのだ。なんにせよ自信を持っていなければできないことだった。

 仕事が終わると、いつものように割烹着を脱ぎ、ヒョオルは料亭を後にした。

 そのまま小さな提灯を掲げて大通りを抜ける。都は田舎と違って、暗くなってもそれなりに往来があるのだが、流石に料亭が閉まるこの時間では人影はない。

 月明かりと提灯の明かりを頼りに、ヒョオルは『教味院(キョニウォン)』の門前に着いた。

 立札の真正面に立ち提灯を掲げて見ると、想像したとおり一番先頭に自らの名前が記されていた。

 満足そうに口の端を上げると、三人の氏名の横に小さな字で記された文字を読む。そこには合格者が実際に宮中に上がる日時が記されていた。

 店の者たちもそのつもりでいたとはいえ、今後の『梅月(ファリウォ)』の仕事を整理しなくてはいけないし、新しい料理長も任命しなくてはいけない。残り半月ほどだが忙しくなりそうだ。そんなことを考えていると、背後に気配を感じた。

 振り返ると、そこにルミヤがいた。

「これはどうも」

 ルミヤからはただならぬ怒りと憎しみが放たれている。それを煽るかのようにヒョオルは呑気な挨拶をした。

 ルミヤは震える指でヒョオルの顔を指さしながら迫ってきた。

「おのれ、許さんぞヒョオル。私が宮中へ入る最後の望みをあのような形で奪いおって。お前が邪魔しなければ私は合格していたはずだ。お前は私の未来を奪い、料理人としての私を殺した!」

 ルミヤは激高していた。ヒョオルは冷笑を浮かべてその指先を払い落とした。

「今回は山芋の皮のせいで不幸な事故に遭われてさぞ悔しいことでしょうね。心中お察しいたします。ですがあのような事故は有望で才能ある者であれば誰でも経験することなのでは? それがたまたま料理人登用試験の時だっただけですよ。私も同じようなことで貴民(シャノル)のお屋敷で料理をする機会を失いましたからね。

 仮に私が妨害しなかったとして、あなたの料理が私を含めた三名の料理にかなうものだったでしょうか? そばを通った時少し拝見しましたが、あれで合格をもぎ取るのは厳しかったと思いますよ。

 やはり田舎の旅籠の料理人風情には、宮中など夢のまた夢です。身の程をわきまえて細々と生きていくのが幸せではないですか」

 ルミヤは罵る言葉が出てこないくらい怒りに全身を支配されていた。ヒョオルはその様を嘲笑い、勝ち誇って夜道を去ってゆこうとした。

(あの悪魔め、絶対に許さん!)

 背負った風呂敷を下ろし、荷物が散らばるのも厭わず中を探って、細包丁(タギノ)を取り出したルミヤは、悠々と歩く後ろ姿に突進した。

 ヒョオルは殺気を感じて振り返った。鬼の形相のルミヤとその手に光る細包丁(タギノ)が目に飛び込んでくる。慌てて身をかわすと、ルミヤは勢い余って王宮の城壁にぶつかった。だが壁に手をついて振り返ると再び襲って来る。


 ヒョオルは細包丁を持ったルミヤの片手を掴んだ。ルミヤはもう片方の手でヒョオルの肩を掴み、包丁の切っ先をヒョオルの体の方へ押す。ヒョオルは片手に持ったままだった提灯で、ルミヤの頭を殴った。

 肩を掴む力がゆるむ。ヒョオルはルミヤを突き飛ばして逃げた。しかしすぐに後を追う足音が聞こえ始める。

(負け犬が私を殺すつもりか)

 提灯の明かりのない中、ヒョオルは夢中で走った。わかりやすい大通りではなく、狭く入り組んだ路地を選んだため、途中からどこを走っているのかわからなくなったが、執念深い足音から逃れるため足を動かした。

 いつの間にか、川の上にかかる橋までたどり着いていた。あたりには小さな民家が並んでおり、皆寝静まっているのか物音一つなく、ヒョオルの鼓動と息づかいだけがあたりに響いているようだった。

(もう諦めたか)

 足音は聞こえない。ヒョオルはそこで膝に手をつき、呼吸を整えた。しかし安心しかけたところへ、一軒の家の影からルミヤが現れた。

「見つけたぞ」

 ルミヤは再び襲いかかった。ヒョオルはその刃を避けながら橋の上に逃れた。

 欄干に追い詰められたヒョオルの真上に、銀に光る刃が迫るが、すんでのところで振り下ろすその手を掴んだ。二人は再び組み合い、橋の上で格闘した。

 ヒョオルはルミヤの手首と襟をつかんで、己の体もそらせながら、欄干の外側に押しのけた。ルミヤも踏ん張ったが、やはりヒョオルの方が若く、力があった。ルミヤはじりじり欄干の向こう側へ押され、ついにするりと落下してしまった。

 バシャッと派手な音がした。この川は山から流れる大きな川の支流であり、さほど深くない。荒い呼吸をしながらヒョオルが下を覗くと、真っ黒な川の上に、大の字になった人の姿が浮かび上がった。月の光が照らしたその顔は、既に魂が抜けていた。

(死んだのか)

 ヒョオルは欄干を頼りながら橋を渡り、土手を下りて確かめた。

 ルミヤの見開いた眼は側に来たヒョオルを捉えることはなかった。手足もピクリとも動かない。その頭は微妙な角度にかしいでいて、よく見るとその下に小鍋ほどの石があった。月明かりを頼りに見ると、その頭の周りにどす黒い物が広がっている。

(頭を打ったんだ。それで死んだ)

 ヒョオルが理解すると、上の方から話し声が聞こえた。物音がしたので様子を見に出た者がいるらしい。ヒョオルは橋の下をくぐり、土手の淵を歩いてその場を去った。

 しばらく川を下り、橋からだいぶ離れたあたりで土手を上がると、ふと立ち止まる。

(ルミヤを殺した)

 これまで、料理に細工をして食べる人間に害を与えるようなことは何度もしてきた。それでもその手で人の命を奪ったのは初めてだ。いくら憎むべき相手であったとしても、殺人を犯したという事実は、流石のヒョオルをも震えさせた。

(落ち着け。あれで正しかったんだ。奴が先に細包丁(タギノ)で俺を殺そうとした。試験で奴の邪魔をしたがあれは復讐だ。思い出せ、五年前も同じことをされた。当然の報いだろう。それなのに私を恨んで、料理で敵わないからと命を奪おうとした。そんな奴が死んで何を悲しむことがある。

 もし殺していなければ自分が殺されていた。ここで命を落としたら、試験に受かったのに宮中へ入ることもできなくなる。折角ものにした出世の機会を守っただけだ。そうだ、これまでヨクギ家や『月香(リウォソン)』と『梅月(ファリウォ)』でしてきたことと何も変わらない。邪魔者を排除しただけだ。何を恐れることがある)

 良心の呵責は一瞬で過ぎ去った。震えは止まり、頭はすっきりと冴えわたった。

 ヒョオルは川を離れ、王宮の方角に当たりをつけて早足で歩いた。幸いすぐに見知った風景の場所に出た。そのまま『教味院(キョニウォン)』の前に行くと、ルミヤの荷物が散らばっていた。ヒョオルはそれを手早くまとめて帰路に就いた。誰もが寝静まっており、その姿を見た者はいない。

 翌朝、手に細包丁(タギノ)を握った料理人らしい遺体が見つかったと、ちょっとした騒ぎになった。都の警備隊は一応あちこちの料亭や食堂に問い合わせをしたので、ヒョオルの耳にも入った。

「我が店の料理人は全員そろっております」

 調べにやってきた警備の兵士にそう答えて、ヒョオルは何事もなかったかのように仕事をこなし、夜、帰宅するとルミヤの荷物を全て燃やしてしまった。
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