第一章 新しい使用人  第十話

文字数 3,036文字

「嫌だ! 奥様違います。私は盗んでいません。本当です信じてください!」

 泣いて訴えるパオを、カンニョンが外へ引きずって行った。

 奥様は部屋の戸が閉まるまで厳しい表情を崩さなかった。そして、パオの声がすっかり遠ざかってしまうと、息子に向かって言った。

「あのような者を、始終お前の側に置いておきたくはない。明日から側仕えから外します」

 そして、傍らに佇むヒョオルを指して、こう続けた。

「代わりにヒョオルを使いなさい。この者のおかげで帯を盗まれずに済みましたし、その上、罪を逃れようと言いがかりをつけてきたパオを庇うような善良さがあります。まだここへ来て日が浅いが、賢い子ですから問題ないでしょう」

 若様は少々パオを惜しんでいるようだったが、盗みを働いたのは事実であるし、母の言葉ももっともだと、黙って頷いた。

「お前も明日からはそのつもりでいなさい」

 奥様はヒョオルにそう命じた。

「私が、若様のお側にお仕えしていいのでしょうか?」

 ヒョオルは遠慮してそう答えた。

「そうだ。ゴンリョルとジヤも、わかったな」

 ヒョオルは頭を下げて承諾した。ゴンリョルも、急な展開にやや驚いてはいたが、主の言葉に従った。ジヤは、下手にパオを庇って罰を受けるのが怖くて、コクコクと激しく頷いた。

 パオは大人たちに簀巻(すま)きにされて、冷たい雪が積もった庭に放り出された。他の使用人たちもその周りに立たされて、その様子を見せられた。

 カンニョンともう一人の大人が、どこからか木の板を持ってきて、うつ伏せに転がっているパオの両脇に立った。

「よいか、手加減はするな」

 例によって、奥様と若様が(きざばし)に立って、その様子を見届けた。

 カンニョンは泣き叫ぶパオに、一瞬同情の視線を投げかけたが、すぐにその感情を消し去り、冷酷に板を掲げ、その背中に振り下ろした。

 バシンと大きな音がして、パオが呻いた。周りで見ていた使用人たちも、思わず身を竦めた。続けて、もう一人が板を振り下ろす。カンニョンと男が、数を数えながら交互に板で叩く。叩かれるたびにパオは呻く。

 苦し気な呻き声は、徐々に大きく、悲痛になっていった。その声はヒョオルを喜びで満たした。

 復讐は成った。宴の時、卑怯な手を使って自分を陥れた奴に、もっとひどい汚名を着せて、その地位から引きずり下ろした。屋敷から追放することは叶わなかったが、図らずも、その地位に自分が座ることになったのだから、上々の成果だ。胸の内に、何とも言えぬ快感が湧き上がってくる。

 カンニョンが十五を数えたころ、ふと、パオと目が合った。恨みがましい眼光は、星のように禍々しく光っている。きっと宴の夜の自分も同じような目をしていたのだろうと、ヒョオルは思った。

(覚えておけよ。次に俺におかしなことをしたら、本当に追い出してやるからな)

 視線でヒョオルは語りかけた。あの夜、物置に閉じ込められた自分にパオがしたように。

 六十回叩き終わるころには、パオの呻き声はずいぶん弱弱しくなっていた。簀巻(すま)きを解いてやると、背中や尻の皮膚は破れ、衣服には滲んでいた。ぐったりとして、首を動かす気力もないようで、カンニョンに強引に掴まれないと、立つこともままならなかった。他の使用人たちは、出来心を起こすと自分たちもこうなると、震え上がった。

 カンニョンはパオを担いで裏庭へ連れて行き、言いつけ通り木に縛り付けた。

 冷たい風が吹き付ける中、このまま放っておかれたら、一日ともたないだろう。奥様たちが去った後、仲間たちはそっと彼の側へ行って、こっそり傷に薬を塗ってやり、体が冷えないよう着物をかけてやった。

「お前のお給金は、帰った時にちゃんと家族に渡してやるから」
 これではパオは帰省できない。故郷の近い使用人が、そう言ってやっていた。

「俺が告げ口しなければ良かったんだ。でも、あのまま黙っていたら、他の誰かが疑われたかもしれないし、パオももっとひどい目に遭っていたかもしれないし……」

 ヒョオルは、内心いい気味だと思っていたが、表面上は彼に同情し、自分を責めている風を装った。

「自分を責めるなよ。パオだってあのまま隠し通せるわけはなかったし、あの場合、言うしかなかったんだ」

 ゴンリョルはそう慰めた。本当に仲間を気遣っているなら、わざわざ奥様に告げ口しなくても、帯をこっそり戻しておくとか、若様にお話しするとか、色々とやりようはあったはずなのだ。だがヒョオルの表情は、本当に後悔に苛まれているかのようで、皆すっかり騙され、同情さえしてしまう始末だった。

 こうしてヒョオルは、心のうちでは意気揚々として故郷へ帰省した。

 ヒョオルの家族は父母、それに二人の兄の五人であった。二番目の兄の方も、町の商家に働きに出ており、この時は帰省が同時となった。

「お帰り、さ、はやく」

 母であるカッタは家につくなり、手を出してきた。給金を寄越せというのだ。

 息子が帰ってきたというのに、まず金を出せとは、ずいぶん薄情なようだが、昔から貧しさに不平を言ってばかりの人だったので、兄もヒョオルも何の感慨もなく、荷物の中から給金の入った袋を取り出し、その掌にのせてやった。

 カッタはそれを持って家に上がると、父の隣に座って袋を開けた。父も一緒になって、息子たちがいくら稼いできたか、確かめる。兄はその横で、せっせと草履(わらじ)を編んでいた。

「なんだ、ヒョオルはばかに少ないな」

 父親のノラが顔だけ上げてヒョオルを見据えた。彼も何かにつけて愚痴を言い、夜に薄い酒を飲むのだけが楽しみな人間だった。

「本当だ。貴民(シャノル)のお屋敷だっていうのに、随分シケてるじゃないか。まさか、ヘマして減らされたんじゃないだろうね」

 カッタもヒョオルをなじるように言った。利を求める商人の家より、貴民(シャノル)の家のほうが稼げるというのが一般論だから、ヒョオルの稼ぎが兄より少ないのはおかしいと決めつけているのだ。

「そりゃ、新入りだから少なくて当然だ」

 おまけに子どもである。ヒョオルは少しムッとして答えた。だが、両親にそんな弁解は通じなかった。

「そんなこたぁ関係ねぇ。もし新入りだなんだと給金に差が出るなら、役に立つようなことをして、それ以上稼げば良かったじゃねぇか。まったく、使えねぇガキだ。遊びに行かせてるわけじゃねぇんだぞ」

 この言葉がヒョオルの心に火をつけた。

「俺は屋敷に上がってひと月ぐらいで、仕事をあらかた覚えたし、泥棒を捕まえて若様のお付にまでなったんだ。十二分に働いているさ、毎日畑でだらけているのが楽しそうに見えるくらいにはね」

 今度はヒョオルが父親に火をつけてしまった。ノラは音を立てて乱暴に立ち上がると、ヒョオルの頬を殴り飛ばした。衝撃で床に倒れると、床は今にも底が抜けそうな悲鳴を上げた。

「生意気言いやがって、自分がうすのろで稼げねぇからって、父親に向かってその態度は何だ!」

 床に倒れても、ヒョオルの目から反抗の光は消えていなかった。

「俺たちが稼いでこなきゃ、飢え死にするくせに!」

「なんだと、このガキ!」

 ノラはヒョオルの胸ぐらをつかんで立たせ、もう一度その頭を殴った。同じようなことを五回ほど繰り返す。他の家族は助けに入るどころか、それがよく見慣れた、すきま風を通す穴の空いた壁であるかのように、ただ見ているだけだった。

 ヒョオルはそれ以上何も反抗できなかった。しかしこの時、幼い頃から胸の奥に埋まっていた、家族への不満と嫌悪の種が、青々と芽を出したのだった。
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