第二十三章 崩れた偶像  第五話

文字数 2,945文字

 翌日、ヒョオルは夕方王宮へ戻ってきた。

 彼が気にしているのは、自分がいない間に良からぬことが起きたかどうかだ。

「予想通り、ユガ様がヒョオルさんの事を嗅ぎまわっていましたが、事前に手を打っていたので、全く無意味でした。王様もお変わりなく、ヒョオルさんへの信頼が揺らぐ様子など微塵もありませんでした」

 留守を守りとおせたことで、サユは安堵し、少々高揚していた。

 ヒョオルはユガに手出しさせないよう先手を打っていたので、過度に安堵することもなかった。

 それよりも彼は休暇中にユガを葬り去る方法を練っていた。後でゾラの元へ行って相談しなければならない。

 サユもヒョオルがユガに手を下すつもりでいることはわかっていたので、その心づもりでいた。

 そんなサユのもとに、ファマの住まいから呼び出しがあった。

「え、ユガ様のおもてなしを?」

 ユガがファマに挨拶に来たので、近日ユガを招いて茶菓子でもてなすというのだ。

「なるべく王太子さまに近づけてほしくありません」

「そうは言っても、きちんと挨拶をしたいと申し入れられたので、拒否するのも角が立ちます」

「その行動に裏が無いとは思えません。挨拶を申し入れてきた時、何か怪しい様子はありませんでしたか」

「それが、贈り物として黒蓬で染めた毬を渡してきました」

 サユはサッと顔色を悪くした。

「もしや、海老のせいで発疹が出ていたのではなく、黒蓬のせいだと露見したのでは?」

「まさか。そんなことはないと思います。偶然かと……」

 確かにユガはこの期間、ずっとヒョオルの周りの人間を探ってばかりいて、ファマの食べつけない食材についてなど、まったく興味を示していないようだった。先の暗殺未遂事件のことよりも、ヒョオルが唱えた財政改革案が特定の人間を利するためだったことに焦点当てていたはずだ。宦官が偶然だと言う気持ちもわかる。

 だがもし海老を食べつけないのが嘘だと知られているなら、ヒョオルにとっては危機だ。すぐにでも報告すべきだったが、先ほど留守中は何の問題もなかったと言ったばかりなのに、そんなことをヒョオルに報告したら、彼はきっと落胆し、失望するだろう。役立たずの間抜けを見る目で睨まれて、耐えられるはずがない。想像するだけでサユは全身の血が凍ってしまうようだった。

(そうよ、まだ知られたと決まったわけじゃないわ。本当に偶然かもしれない。もしそうだとしたら、ヒョオルさんを無駄に煩わせることになる。それに、たとえ知られていたとしても、私が何とか対処すればそれでいいのよ。だから今はまだ、ヒョオルさんに伝えなくてもいいわ)

 そうやってサユは恐怖から逃れた。まずは静観して、ユガの狙いを確かめてからでも遅くはない。

 ユガのもてなしは二日後と決まった。サユは相応しい茶菓子を出せるように準備を進めた。そういう予定は当然ヒョオルの耳にも入るが、サユは黒蓬の毬のことなどは話さなかったので、ヒョオルは特に警戒せよと伝えただけだった。

 前日に、王も同席すると知らせが届いた。重臣が幼い王太子に会うというので、一応親として付き添おうと思ったようだが、きっとユガが働きかけたに違いなかった。

(王様を呼ぶなんて、やはりユガ様は何か企んでいるのかしら)

 サユは小さく手を震わせていたが、顔色だけは何でもないふうを装っていた。

 そして当日、昼下がりに王がユガを連れて東宮殿へやってきた。

 宦官や女官は恭しく出迎え、ファマも入り口まで出てきて自ら部屋の中へ招いた。

 ユガが部屋の中で王太子へ頭を下げ、臣下としての忠誠と王太子の健康を祈る口上を述べる。王はそれを見届けてから、ユガに席を勧めた。サユの用意した茶菓子が振る舞われ、王とユガ、そしてファマの和やかな歓談が始まった。

 何か質問すれば、幼いながらも、はきはきと大きな声で返事をするファマの様子に、ユガは破顔して言った。

「王太子様は闊達でいらっしゃいますな。なんでも野外でお体を動かして遊ぶのが好きだとか。将来の国王として、健康であることはなにより大事。まことに良いお世継ぎです。近頃は海老が食べられるようにもなりましたが、それも健やかにご成長されている証でしょう」

「うむ。まだ子供ゆえ、この先どうなるかわからぬが、ひとまずは安心しておる」

「王子様は毬遊びがお好きとか。この前私がお贈りした物は、使い心地はいかがですかな?」

 ユガは優しく微笑んで尋ねたが、ファマは首をかしげてぽかんとした後答えた。

「それは、知らない」

「おや? 先日私がお付きの者にお渡しした毬です。黒い布に刺繍がしてあるものですよ」

 細かい特徴を伝えても、ファマはふるふると首を振った。

 ユガは宦官を呼びよせて、あの時の毬はどうしたのかと訊いた。

「あの時、王太子様はまだお休みでしたので、後でお渡ししようと思い、しまっておきましたが、うっかり忘れていました。申し訳ありません」

 宦官は誤魔化すために嘘をついた。

「これは心外だ。私なりに心を込めて贈ったものなのに、王太子様に見ていただいてもいないとは。まぁよい。ちょうど良いからあれをこちらへ持ってまいれ。今お目にかける」

「はぁ……」

「早くせよ」

 ここまで言われて断るのは不自然だ。宦官は物置から毬を取ってきて、三人の前に差し出した。

「おお、なかなか良い品だ」

 王はその細工の見事さを褒めた。そしてファマに手に取ってみるよう促した。宦官が冷や汗を流しているのも知らず、新しい玩具に釘付けになっていたマショクはすぐに手を伸ばして両手で毬を持ちあげた。

 くるくると回して刺繍の模様を眺めたり、ちょっと投げ上げてみたり、ファマの小さな手のひらは、しっかりと黒蓬で染まった布に触れていた。

「この黒の艶やかさは見事でございましょう。黒蓬で染めたとのことです。特別な染料を使っていないのにこの美しさなので、王太子様に相応しいと思ったのです」

 ユガが笑うのは、贈り物を喜んでもらえたゆえではない。王の目の前でファマに毬を触らせることに成功したからだ。

 その後しばし王とユガは会話を続けた。その間もファマは毬をもてあそんでいた。宦官や女官は、早く毬を取り上げてしまいたかったが、王とユガの目の前でそんなことはできない。

「王子様、折角ですからお庭で毬を使って遊びませぬか。老いぼれがお相手しますぞ」

 ファマは大喜びですぐに立ち上がって庭へ駆けていった。お付きの者たちは顔色を悪くしながらも、ついて行くしかなかった。

 ユガが毬を投げてやり、ファマが受け取り、ユガの方へ転がす。そんなふうに遊んでいるうちに、ふと、ファマが己の手のひらを気にしだした。

「どうしたのだ?」

 王が後ろからのぞき込んでみると、てのひらが赤みを帯びて、腫れたようになっていた。よく見ると、小さな発疹がある。

「や、これはどうしたことだ」

 以前の誕生祝の宴で、海老の出汁入りの粥を口にした時と似た症状だった。王はすぐに医官を呼びつけた。

「これは異なこと。今日の茶菓子には海老は使われておらぬでしょうし、そもそもファマ様はもう海老をお食べになれるのではありませんでしたかな。それなのにどうして昔と同じような症状が出るのでしょうか」

 ユガはさも驚いたように言った。王も困惑していた。
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