風紋・Ⅰ
文字数 5,105文字
閑話です。
婚礼の日の騒ぎから一週間。
***
焼けた砂が描く風紋が地平まで続く。
オレンジの砂丘にオレンジの瞳の娘が立っていた。
手には麻の表紙の古びた書物。
読み返しては暗記した砂漠の詩歌を唱えている。
何度も何度も。
「ルウシェル様」
夕陽を背景に砂丘を越えて、青毛に乗ったシドが現れた。
「日中からここに居(お)られたのですか?」
「あっ……」
娘は我に返って振り向いた。首を動かした瞬間、足元をふらつかせる。
「干からびてしまいますよ」
シドは慌てて下馬して彼女を支えた。
確かにモエギ長はこの書物を切っ掛けに『風を流す能力』を開花させたが、娘のルウシェルにもその方法が合うとは限らない。
「貴女まで倒れてしまったら洒落になりません」
ルウシェルはシドの差し出した水瓶を受け取って、一気に喉に流し込んだ。
四肢の先まで水が染み渡る。こんなになるまで気付かなかったなんて。
婚礼の儀式の騒ぎから一週間。
久し振りの友達に元気付けられたルウシェルだったが、皆それぞれに、数段成長していた。
相変わらず風を流す感覚すら掴めない自分が、随分情けなく思えた。
これまで術の手解きをしてくれていたソラが居なくなった心細さもある。
こんな時にいきなり『修行し直します』と、里を離れてしまう彼に、少々ショックを受けた。
そんなに蒼の大長殿の術は魅力的だったのだろうか。
蒼の里のユゥジーンが、帰るのを遅らせて色々と手伝ってくれているが、彼の主義なのか、地味な裏方仕事のみに徹している。
「彼、生真面目っていうか、出過ぎた事はやらないんです。お陰で元老院に言い掛かりを付けて来るキッカケを掴ませなくて助かってはいるのですが」
苦笑してシドは肩を竦める。
「蒼の里が西風に対してそういう方針だからだろう。ジュジュ……じゃなかった、ユゥジーンは、子供の頃から公私の切り替えの出来るしっかり者だった。私も見習わなくては」
「そういえば、例の会合、明後日ですが、また予行演習しますか?」
「やり過ぎるくらいやった、もういいよ」
空に出現した渦巻きについて、砂漠の他部族から証言を求められている。
本格的に襲われたのは西風だけだが、空の異変はあちこちで報告されていて、少人数だがモエギ長に似た症状の被害も出ていたらしい。
開かれた会合場所の一つ、砂の民の修道院に集い、各部族の代表の前で、今回の顛末を話す事になっている。
いつもはそういうのは母かソラが行ってくれていたので、ルウシェルにとっては初めてだ。西風の長の名代として、恥ずかしくないよう務めなくてはならない。
それがもう明後日に迫っていて、実は緊張を紛らわせる為に砂漠に出ているのもある。
(風を流すヒントだけでも掴めたら、自信が付くかなと思ったんだけれど)
そうそう都合よくは行かない。
シドは自分の仕事をやりに里へ戻り、ルウはもう少し集中してから戻ると言って残った。
砂の地平に陽が沈み、藍の空に星が現れる。
星空の詩歌を試してみようと暗くなるのを待ったのだが、相変わらずどう唱えても感触を得られない。母者が唱えると、空全体の風が生きているように動き出すのに。
「里へ戻るか……」
明日の長の事務仕事が届いている筈だ。元老院の老人の書く達筆をいちいち解読せねばならないのが地味に疲れるが、シドもユゥジーンも手伝ってくれるし、弱音は吐けない。
しかし、頭では分かっているのだがやはり憂鬱で、身体が帰宅するのを嫌がってしまう。
不意に、シンとした空気に、音が聞こえた。
砂漠の夜に違和感のある、細い高い子供の声。
砂丘の反対側からだ。
ルウシェルは砂の原を回って、声のする方を覗いた。
「!!」
声の主はやはり子供だった。
小さい女の子。
白すぎる程白い肌に紫の前髪は、この辺りの者ではない、見た事もない種族だ。
その子供が星灯りの下、風紋の頂点をフワフワ跳び移りながら、歌を唄っているのだ。
体重が無いような動き。そういう事の出来る種族なのだろうか。
覚えがある? と思ったら、さっきまで自分が唱えていた詩だった。
「あっ?」
女の子はルウを見て、唄を止めた。
「この詩を知っているのか?」
ルウがそっと聞いた。
「ううん、今あんたが吟じていたのを聞いて覚えたの。ステキな詩だね。あたし気に入っちゃった」
女の子は一つ所でポンポン跳ねた。広がった猫っ毛がワサワサと揺れる。
「それは嬉しいな」
少し聞いただけで覚えてしまうなんて、大した子供だ。気に入って貰えたのなら何よりだ。
「ね、ね、このステキな詩に音楽を付けたら、もっとステキになると思わない?」
「そうだな」
子供が何にでも節を付けたがるのはよくある事だが、この子の唄う旋律は中々に素敵だ。
「お前どこの子だ? 一人で砂漠へ来たんじゃないだろう? 迷子か?」
「ん、んん~~」
女の子はそれには答えず、後ろ手を組んでルウに近付き、手の書物を見て目を見開いた。
「ねえ、その手に持っているの、なに!?」
「ん? これは、さっきの星空の詩とかが書いてある書物だ。母者の……」
「欲しい! ちょうだい!」
「えっ、いやいや駄目だ」
「どぉして?」
「どうしてってこっちが聞きたい。何でお前にやらなきゃならない?」
「だってあたし、その詩に音色を付けてあげられるんだよ。詩は音色に乗るのが一番嬉しいと思うの」
ルウは苦笑した。
「そうだな、お前の言う事も一理ある。しかしこの書物は私の物ではないんだ」
「う゛~~・・ じゃあ持ち主に会わせて。直接お願いするから」
「そんなに欲しいのか?」
「当たり前じゃない!」
ちょっと心が動いたが、この書物は母者の身体の一部だ。やはりくれてやる訳には行かない。
女の子の目の高さにルウは屈んだ。
「持ち主は重い病気で床に伏している。お前に会っても話は出来ない。な、だったら書き写すか? 手伝ってやるよ」
「うう~~、あたし、文字が読めない・・」
女の子はまだ不服そうに、もじもじと足を交差させる。
「ふむ? だったら何で欲しいんだ?」
「その書物の文字が欲しいんじゃないの、その書物の光が欲しいの」
「ひ・か・り・・?」
「あんた見えないの? そんなに輝いているのに」
***
「ひ、光ってる? これが?」
ルウシェルはマジマジと手の書物を眺めた。古びた麻表紙の、角が丸まった書物。
これのどこが光って見えるんだろう。
「そう、世の中には、『光る物』、『光らない物』あと『黒く陰をまとう物』の、三種類があるんだよ」
「…………」
「本当に見えないかなあ。あんた、あと三つも光る物を持っているのに」
「えっ?」
「その胸の半分の羽根と、手首の革腕輪。それと腰の花模様の剣」
「………貰った物だ、みんな」
「そうなの? あんた大事にされているんだね。そんなに一杯持っているヒト、いないよ」
「……・・お前・・お前は一体、誰だ・・?」
女の子は後ろ手を組んでクルリと回った。
「あたしはリリ。風露のリリ」
前髪は淡い紫だが、後ろ頭が群青なのに、今気付いた。
「私はルウシェルだ。この先の西風の里に住んでいる」
「るうしぇる? るう、るう――しぇる・・うふふふ、ステキな名前」
リリは、名前に節を付けてクルクル回った。
首元で何かがチラチラ光っている。
「なんだ、お前も持っているじゃないか、光る物」
「えっ?」
女の子は止まって、首に掛けていた紐を引っ張った。
衣服の下に入れていた山吹色の袋が、回った拍子に飛び出して背中に回ったようだ。
「ああっ、しまったあ」
明滅するそれを見て、慌てて、跳んで来た方向に駆ける。
呆気に取られて眺めていたルウシェルだが、女の子の走る先に浮かぶ物を見て、総毛立った。
目の高さに、小さな波紋が水の輪を広げている。
しかも真ん中に肩幅程の穴が開き、向こう側におどろおどろしい異空間が口を開けている。
「危ないっ、行くな!」
慌てふためいたルウに飛び付かれて、女の子は砂の上に顔から突っ込んだ。
「ふがっ」
「逃げろ、これは危険な物だ!」
「ふ、ふがふが、ふぐぁ――!!」
懸命に抜け出そうとする女の子に、行かせる物かとガッシリすがり付くルウ。
そうこうしている内に穴は塞がり、波紋と共にスウッと薄れて消えてしまった。
「ふぶぁっっ」
跡形もない空間を見上げて、女の子は砂を吐き出しながら情けない悲鳴を上げる。
「ふがふが、ヒドイ……口の中ジャリジャリ……ケホホ」
「すまない、でも本当に、あの空間は……えっと、悪いヤツなんだ」
シドが置いて行ってくれた水筒で、女の子はケホケホ言いながら口をゆすいだ。
「うう~~ 悪くないよ、ずっとあそこに居たけど、静かでのんびりした所だモン」
「え? は?」
「悪いのは、あの空間を利用して悪さをしようとしている奴だよ」
「…………」
***
「ああ、でもさて、どうしよう。帰れなくなっちゃった」
女の子は後ろ手を組んで困り顔を傾げた。嘘を言っているようには見えない。
「お、お前は本当にあの波紋の穴の向こうから来たのか?」
「うん、あちらからこちらへ穴を開けるのは簡単だから、たまにこうやってお散歩に来るの。けれど、こちらからあちらへ穴を通すのは、ほぼほぼ無理なんだって。じじさまが言ってた」
「じじさま?」
「だからしんりぃはあちらから出ないの。うっかり穴が閉じたら二度と戻れなくなるから」
「シンリィ!!」
ルウシェルは女の子の小さい両肩を思わず掴んだ。そうだ、ユゥジーンはシンリィが、水底の空間で仲間と役割をこなしていると言っていた。じゃあ、この小さい子供が仲間?
「イタイ、イタイ」
「あ、ああ……すまないすまない、シンリィは、……その、元気か?」
「うん、まあね。あたしはマボロシみたいに消えないから、そんなに掴まなくても大丈夫だよ。こうなったら、しんりぃがあちらから穴を開けてくれるまで帰れないから、好きなだけお話してあげる」
女の子は風紋の上にチョコンと座り、ルウシエルに隣を促した。
「熟睡してたから、すぐには起きないと思うし」
「え、あ……それは……すまなかった」
ルウシェルは心より謝った。早合点でトンでもない目に遭わせてしまった。こんな薄着の子を、夜の砂漠の露天で待つ羽目にさせてしまうなんて。
「いいよ、気にしないで。こういう事が起こるからあんまりウロチョロするなってじじさまにも言われてたんだ。でも、あんたの詩が聞こえて、それにあんまりキレイなお月さまだったから、ついつい」
「……あ、じゃあ一旦帰って、羽織る物と暖かい飲み物でも持って来る」
ルウシェルは口笛を吹いて、砂丘の裏側にいる粕鹿毛を呼んだ。
***
「キレイな馬!」
リリは目を輝かせた。
「それはありがとう」
ルウシェルはまんざらでもない感じで、愛馬を引き寄せた。首筋と鞆(とも)に蛍みたいな斑点を持つこの馬は、主の自分が言うのも何だが中々の美女だ。
上着と……カイロもあった方がいいだろうか、どのくらい待つのか分からないし。
そんな風に考えていて、女の子が懐に近寄ってビィドロみたいな目で見上げているのに気付かなかった。
「ね、ね、あたしその馬に乗ってみたい!」
いきなり耳元で言われて、ルウシェルは飛び上がった。
女の子はワクワクを隠しきれない表情。
「い、いいけど……ここに居なきゃいけないんじゃないのか?」
「ちょっとくらいなら大丈夫だよ。ね、じじさまがまだ早いって、二人乗りの後ろに乗るのしか許してくれないの。いっぺん一人で手綱を持ってみたいんだ」
「え、一人で?」
気持ちは分からなくもない。自分も小さい時、早く一人で思い切り馬を駆けさせたくてしようがなかった。でもさすがに今会ったばかりの子供に愛馬を預けてやるのは無理だ。
「二人乗りの前ならいいか? 手綱は持たせてやるから」
「うん、それでいいよ!」
ルウシェルは女の子を押し上げた後、すぐに後ろに跨がった。
七つくらいに見えたが、思ったより身体の厚みの薄い子だ。
「ほれ手綱。むやみに引くなよ。身体を支えたい時は、私の腕かタテガミを掴むんだ」
「・・うん」
女の子は神妙に手綱をヘソの前に構え、姿勢を整えた。
騎座は安定している。
馬はシャナリシャナリと、素直に真っ直ぐに歩き出した。
「なかなか上手いじゃないか」
「しんりぃの真似をしているの。いつも後ろで見ていたから」
「へぇ、私と同じだな。私も昔、よくシンリィの後ろに乗せて貰った」
「そうなの? じゃあ次は飛んでみるね」
「えっ、ちょ……」
ルウに何も言わせる前に、馬が空気を纏った。早い!
浮き上がるのも早い、まるで……
((( どんん )))
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