愁雨・Ⅲ
文字数 3,162文字
翌朝、リリは水底を歩き回って、あちこちの窓をチェックしていた。
自分の役割はシンリィを助ける事で、セキニンとかセツリとか関係ない。
ただ、窓から見ていた秩序溢れる美しい世界が壊れて行くのは、嫌だった。
かと言って、何をやったらいいのか分からない。
とりあえずシンリィが眠っている間に、窓から地上世界を偵察してみる事にした。
対流している壁が動いて出来る、パン生地の穴のような窓には、相変わらず色んな景色が雑多に映る。
ここへ来た時はあんなに緑だった草原が、今は黄色く色付き始めている。
昨日までの雨があがって、足の真下の青い空に掛かるのは、リリの大好きな……
「虹だ!」
澄んだ青に横たわる、筆で引いたような赤黄紫の帯。
風露じゃ霧に包まれてばっかりだから、空にあんなのが出るなんて知らなかった。
リリは上機嫌で、窓越しに見える虹の、好きな紫色の上を歩いた。
この自然に出来る『窓』は、術で開ける穴と違って、向こうが見える透明な壁だ。こうやって空や雲の上を歩いてみるのも、リリのお気に入りの遊びだった。
「風露を出て初めて知った事は多かったな。この役割が終わったら…… しんりぃは蒼の里に行っちゃうのかな。あたしはどうしよう。自分の馬は欲しいなぁ」
《 イイ事を教えてあげる 》
いきなりの声に横っ飛びしたら、紫の前髪の女の子が立っていた。
随分久しぶりだ。
彼女は虹の赤い色の上を、リリと並んで歩いていた。
《 一旦蒼の里へ行くのよ。言う事を聞く振りをして、七つになって馬を貰ってから、とっとと逃げてしまえばいい 》
「…………」
《 関係ないじゃない、自分の欲しいモノだけ手に入れて、面倒なモノはみんな捨てちゃっても。馬さえ手に入れれば、あたしって一人で生きて行けると思わない? そうして遠くの遠くの国で、セキニンもセツリも無しに、自由に楽しく生きればいいんだわ 》
「…………」
リリは立ち止まって、無表情で喋る女の子の紫の睫毛を、じっと見つめた。
じじさまは、邪(よこしま)な言葉で誘惑して来る意地悪なマボロシだと言っていた。でも意地悪には思えない。この子の喋る言葉は、とても憐れだ。なんだかとても、儚い、切ない。
答える言葉を探している時に、ふと彼女の後ろに、嫌な物を見付けてしまった。
こちらの世界で小さな渦が巻き、あちらの空へ突き出ようとしている。
あれくらいの小ささなら、最近は退治せずに見過ごすが……
「あっ」
そこに開いている窓が地上を映し、渦が波紋を作って落ちようとしている真下に、一頭の騎馬が居るのが見えた。
蒼の妖精の草の馬で、あまり高くない地面スレスレをゆっくり飛んでいる。
鞍上は青い三つ編みを垂らした女のヒトで、手綱にばかりに集中して、近付く危険に気付いていない。
「大変!」
リリは慌てて、マボロシの横を通り過ぎて、その窓に寄った。
マボロシは何も言わない。リリのする事をじっと見ている。
女性の真上に通じるように穴を開け、首を出して叫んだ。
「ねえ、そこのあんた、危ないよ!」
女性は呑気な感じでキョロキョロしている。
空の穴から呼ばれているなんて夢にも思わないのだろう、すぐまた馬を進め始めた。
波紋の滴は、今にも空から分離しそうに伸びている。
「ああっ、もおっ」
穴の縁に足を掛け、リリは思いっきり跳んだ。
水底の世界の身体が軽い状態から、ガクンと重力が掛かる。
それでも手足を広げて風に乗り、見事に女性の馬のお尻に着地した。
「ええっ!? なになに?」
三つ編みの女性は何が起きたか分からず慌てている。そりゃまぁ、何もない所でいきなり子供が出現したら驚く。
「上を見て! 怖い波紋の波が狙ってるよ!」
「えっ、あああ、何、あれ!?」
「草の馬なら全力で飛べば逃げ切れるから」
「全力って、私、これ以上速くは……」
「貸して!」
リリは後ろから手を伸ばして手綱を握った。
例の『時を飛んじゃう力』は、じじさまに封印して貰ったから大丈夫な筈。
馬銜(はみ)をグッと掛けると馬は風を吸い込んで、見違える加速でそこを離脱してくれた。
波紋は目標を見失ったように揺らぎ、どこか別の場所に流れて行った。
十分に見えなくなってから、リリは馬を降下させ、一旦地上に着地した。
三つ編みの女性は緊張して馬にしがみ付いていたが、胸を撫で下ろしながらリリに向き直る。
「助かったわ、ありがとう」
「ううん、少し待ってから元の場所に戻るね。出て来た穴から帰らなきゃならないから」
「えっと、穴? はい、分かったわ」
女性はよく分からないながらも承知した。
「ねえ、あの波紋は、落ち込んだり欲しがり過ぎなヒトの所に来るんだって。だから普段から出歩く時は、楽しい事だけを考えるようにするといいよ」
「そ、そうなの? 私……ああ、そうかもしれない」
女性はそばかす顔を曇らせて、心当たりがあるという感じで細かく何度も頷(うなず)いた。
「確かに私は欲張りだわ。決まったヒトがいるのに、余所のヒトの事ばかり考えちゃうんだもの。そりゃ、バチも当たろうって物だわ」
「ふうん? よく分からないけれど、キチンと反省する子にはバチは当たらないって、じじさまが言ってたよ」
「そう、ふふ、ありがとう」
もう一度空の安全を確認してから、女性の馬に二人で乗って、先程の場所まで戻った。
空に本当に穴が開いているのを見て、女性は目を丸くした。だからって根掘り葉掘り質問して来ない彼女に、リリはちょっと好感を持った。
リリが馬のお尻に立って、穴の縁に手を掛けた所で、あ、そうだ、と女性は肩掛け鞄から小さな瓶を出して差し出した。
甘い匂いがする。
なあに、と唾を溜めながらリリは聞く。
「苔桃のジヤムよ。助けて貰ったお礼」
「コケモモ!? あのすっぱいの?」
「そうそ。でも糖蜜が一杯入っているから甘いわよ。それに身体にもいいの。お薬の成分にもなるくらいだから」
「へえ、あたしは知らなかったけど、この辺りでは結構普通にある物なのね」
「ある程度高いお山に行かないと無いわ。これは採って来たヒトにお願いされたの。ジャムにして、近隣の村の妊婦さんに配って下さい、って。ああ、妊婦さんの身体には特にいいのよ」
鞄には、幾本かのジャムの瓶がカシャカシャいっている。
「あ、ジャムを作る手数料で分け前を貰う事になっているから、この一本は私の好きにしていい分なの。遠慮なく受け取ってね」
女の子は女性の言葉をじっと聞いていたが、だんだんに口がポカンと開いて来た。
「どこまで配るの? 例えば、あの山の谷の……」
「ああ、風露の谷にも一人いらっしゃるわね。勿論行くわよ。あそこは関に預けるようだけれど」
「…………」
紫の前髪の娘が何だか黙ってしまったので、女性は戸惑った。
「返す」
「えっ、気にしちゃった? 大丈夫よ、私の取り分だから」
「ううん、一緒に持って来たって事は、お姉さんは自分の分を取るつもりは無かったんでしょ」
「……あぁ、まあ……」
「じゃあ、あたしも同じ。コケモモを摘んだヒトの気持ちが届いて、妊婦さん達に元気が付きますようにって、あたしもお祈りしたいから。これも届けてあげて」
女性はマジマジと女の子を見つめた。
「貴女はとても素敵な女の子だわ」
「ありがと、じゃあね」
胸のお守りが点滅し出して、リリは急いで穴に滑り込んだ。
穴は閉じて、窓の方から女性の後ろ姿を眺めながら、リリは口の端をムズムズさせた。
後ろを見ると、まださっきのマボロシが立っている。
「見ず知らずのヒトに、素敵な女の子って言って貰えた! あんたも嬉しい?」
マボロシは苦虫を噛み潰した顔で頷いて、また消えた。
足元の窓の向こうでは虹が薄れ、雨雲は遠くの山の陰に隠れて去って行く。
~愁雨・了~
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