星の雫・Ⅲ
文字数 2,658文字
新月の闇の空、降りて来た騎馬は、草の馬ではあるが、ヤンの知っている華奢な草の馬とは別物だった。
分厚い体躯、関節にみなぎる力、そして全身を覆うサワサワと波打つ草の生命力。
漆黒の中、淡い灯りに包まれ、それは二人の前で停止した。
「ナ、ナーガ様」
ユゥジーンがビビりの入った声で呟く。
鞍上の中性的な美しさを持つ男性。
このヒトが蒼の長、ナーガ・ラクシャ。
以前市場で見掛けた事があるけれど、あの時とは別人だとヤンは思った。
たった数年なのに、樹齢千年を越したような貫禄が上乗せされている。
「あ、あの、僕が無理に頼んで」
「いや、俺が提案したんです」
二人の少年がしどもどと言う前で、ナーガは無表情に黙っている。
「…………ごめんなさい……」
「…………すみませんでした……」
少年達が謝ると、ナーガは静かに口を開いた。
「悪かった事は分かるね」
ゆっくり優しい声だった。
「はい、臨月の妊婦さんに余計な心配を掛けそうになりました」
「大人のヒト達の決定した理由を深く考えないで、勝手に突っ走りました」
「うん、怒り心頭のホルズを、ノスリ殿が取りなしてくれた。明日きちんと謝るんだよ」
「はい」
「後は?」
「……えと……」
「馬をいじめ過ぎ。働いて帰ってすぐ二人乗りで風露を往復なんて」
「は……い……すみません」
「帰りは僕が乗せて行く。三峰の君、こちらへおいで」
ヤンは緊張して、ナーガの大きな馬に乗り移った。
安定感が全然違う……
二頭並んで飛び始めて、少ししてからナーガはささやくように言った。
「ヤン、君には幾ら感謝しても足りない。フウヤをありがとう。僕だったら、あの子にあんなに多くを与えてあげられなかった」
「え」
背中しか見えないけれど、先程とは違う、早口の素の声だった。
「まさか、僕がフウヤに助けられてばかりです」
ナーガは静かに続ける。
「イフルート族長から話を聞いた。恐縮していらしたが、部族全体でフウヤを大事にしてくれているのがよく分かった。あの子は幸せ者だ」
「行かれたんですか、三峰に。人形を持って?」
「ユゥジーンを叱った手前、あまり大っぴらにしたくない」
「あ、はい」
「人形のフウリの声を聞かせるとね、あの子、睫毛をピクピクさせて。それで族長殿と話をして帰り掛けにもう一度覗いたら、起きてスープを飲んでいた」
「え、えぇえっ!?」
「すぐに目を覚ましたらしいよ。凄いな、お姉ちゃん効果は。君の読みは大正解だったんだ」
「・・・・・・」
ヤンは言葉を出せず、ナーガもそれ以上話し掛けはしなかった。
「あの・・」
「ん?」
「ヒト買いと間違えてごめんなさい。あと、馬の代金を払おうと貯めていた宝石、他所の部族の医者に来て貰う為に使ってしまったんです。ごめんなさい、もう少し待ってください」
「それは…………うん、はい、分かりました」
背中は暖かく承知して、少し置いて続けた。
「フウヤは本当はね、生まれた時に既にヒト買いにやられるような運命だったんだ。風露の山で遭難した行きずりの女性が産み落とした子供。それを、市場の君と同じ位の歳だったフウリが、『私が面倒を見るから』って抱えて離さなかったらしい。だからねぇ、フウヤにとってあの女性(ヒト)は、何物にも替え難い、心の拠り所なんだ」
ヤンは一度に色んな事を理解した。
うわ言で呼ぶ位の大事な大事なお姉ちゃんの元を、どうして飛び出してしまったのか。
そのヒトの夫になったナーガを頑なに拒む理由…………
その部族にはその部族なりの掟や定石がある。
でも根っこの深い所は、何処もきっと同じに繋がっているんだ。
***
真っ暗な中に、一筋の冷たい光が反射する。
(あれ、僕、三峰の集落を出て、んと……蒼の里に辿り着いて、風露へ行って、フウヤのお姉ちゃんに会って……)
ヤンは意識を覚醒させた。・・夢かな、これ?
そうだ、フウヤが目を覚ましたって教えて貰った。
よかったなぁ。帰ったらあの子の好きなコクワを山から採って来よう。
母さんに甘く煮付けて貰って……
馴染みのない枕……何処で寝てるんだ? ああ、ユゥジーンの下宿。話したい事がいっぱいあったのに、夕べ横になったら即寝ちゃったんだ。
光は一筋でなく、幾本かが順番に反射している。
夢……だよな、何だかすごいリアル?
目が慣れて来ると、それが沢山の鏡だと分かった。
夥(おびただ)しい量の鏡が作るトンネルが、暗闇の中、遥か奥まで続いている。
変な夢。早く朝にならないかなぁ。
昨日ちゃんと見られなかった蒼の里をじっくり見てみたい。
執務室のヒト達にも謝って…………ん?
トンネルの中頃に影が浮かんだ。
ヤンは目を凝らしてみる。
夢の中でも『見る能力』は効くみたい。
ヴェールを纏った、透けるように白い女性。髪が青いのは蒼の妖精かな、冬の空みたいな薄い青。
綺麗だなあ、昨日から綺麗な女性ばかり見ている。こんなに綺麗な女性って、僕の人生に縁があるのだろうか。
(あっ!?)
不意に、女性の足元の鏡にヒビが走った。
周囲の鏡が次々に音もなく割れて行く。
鏡じゃない、氷だ。分厚い氷。
それらが砕けて、女性の足元を崩して真っ黒な奈落を開いて行く。
危ないよ、逃げるんだ!
声は音にならず、白い女性は成す術もなく、腕をひとかきして暗闇に吸い込まれて行った。
氷の粒と一緒に散っているのは……羽根? 白い羽毛……?
茫然としているヤンの真横を、凄い早さで何かが駆け抜けた。
白蓬の馬!?
背にシンリィ!
馬上から両手を伸ばして、羽毛散る中、少年を乗せた白い馬は、女性の落ちた闇の底へ矢のように飛び込んで行った。
「シンリィ!」
叫んで覚醒すると、現実味のある部屋の天井。
部屋の反対側のベッドで、ユゥジーンも半身を起こしている。
「……見たか?」
薄闇の向こうから掠れた声。
「うん、見た」
「氷のトンネルの中で、女のヒトが奈落へ落ちて行った。それを追い掛けるシンリィ」
「同じだ」
こんな尖った夢、偶然一緒に見る訳がない。
嫌な胸騒ぎを抱えて、二人は顔を見合わせた。
「ねえユゥジーン、蒼の里って、いつもこんなに朝早いの?」
ヤンに言われて、ユゥジーンも気付いた。
まだ夜も明けやらぬ明るさなのに、居住区の方がざわめいている。
窓から外を見て、二人同時に声を上げた。
里の外、暗い地平の山々の上に、幾つもの波紋が広がっている。
大きい、そして禍々しい。
今まで小さいのが現れては消えて行く事はあったが、これらは違う。消える気配が無い。
「う、嘘だろ!」
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