風出流山(かぜいずるやま)・Ⅰ
文字数 3,036文字
雪原を駆ける雪豹(ゆきひょう)の背中なんて勿論乗った事ないけれど、きっとこんな感じに違いない。
ユゥジーンとヤンを乗せたコバルトブルーの馬は、主の要求に応えて、水底の重い空間を能力以上の力で駆け上がってくれた。
「あそこだ!」
ヤンの類稀なる『見る力』は、通りすぎる窓々から、行くべき地平線を見極めた。
――ひ、開け――っ!
ユゥジーンが急いで唱えた呪文で窓はぶち破られ、そこから飛び出すと、二人の身体は一気に高空の冷気にさらされる。
「うぁ、耳がぁ!」
「耳抜きしろ、耳抜き、唾呑んで!」
多分本当に自分達の身体が耐えられる限界の高度だった。
ヤンの眼がなければ来られなかったろう。
「あああ!」
そこに広がる光景に、二人は耳の痛みも忘れて声を上げた。
昼とも夜ともつかない澄みきった紺碧の空。
すぐ頭の上を高速で走る百千の帯。
風だ。この星を巡る数多(あまた)の風が、縦横に遥々(ようよう)と流れているのだ。
「ヤン、見える?」
「風の帯だろ? ユゥジーンと同じ見え方かは分からないけれど。色が付いているのは温度? 方向? 速さかな? 凄いね、これ」
「…………」
「あ、あの山岳地帯に通じる白い帯、あれに乗ればいいんじゃないかな。ね、ユゥジーン」
ヤン、どこが一介の草の根の民だよ……
剣のような頂が連なる白い山岳地帯。
ひときわ高い独立峰を目指して、二人乗りの騎馬は風の帯を飛び出して降下した。
初めての高速飛行に感動している暇なんてなく、鞍上の少年達は髪にツララを下げて青息吐息だ。
頂上から少し下に広い棚があり、建物が崩れたような氷の塊が積み重なっている。
夢で見た建物はこれかもしれないが、激しい降雪に隠されていつ崩れたのかよく分からない。おまけに白い靄も湧いて来た。
馬を下りて二人は、凍った髪をかき上げて、周囲を見回す。
「あっちの氷の塊が夢で見た神殿の瓦礫っぽいけど。ユゥジーン、でも地面にあった大穴が見えないね。 …………ユゥジーン!?」
ヤンが慌てて振り向くと、すぐ後ろにいたユゥジーンが消えている。
ゾクッとして、その場から足を動かさずに360°を見回した。
乗って来た馬すら居ない。
(そんな、ほとんど動いていないのに)
「ユゥジーン、ユゥジーン!」
呼んでも返事はなく、視界はホワイトアウトして水底のように歪んで行く。
まずい、まずい。
ヤンは意識をしっかり保つように、頬や膝をパンパン叩いた。
目前の靄の中に人影が浮かぶ。
ユゥジーン? 違う、例のマボロシか? 性懲りもなく・・
「ヤン!」
予想に反して、雪の中から現れたのは、思わぬ人物だった。
「これも、マボロシか……?」
「ううん、正真正銘、僕だよ。足に力が入らなくて、そっちに歩いて行けない。支えてくれる?」
「フウヤ!!」
白い少年が目を開いて立っている姿を見て、ヤンは心が震えた。
思わず駆け寄りそうになったが……
(いや待て、何でこんな所に彼が居る?)
「どうして此処に、って思ってる? 明け方、お姉ちゃん人形に呼ばれたの。寝る前に鏡を伏せていたのに、不思議だなって思って目を開けると、部屋の中にいきなり波紋が現れて」
「……それで?」
「波紋に穴が開いて、向こうにヤンが見えた。すっごく寒そうな場所にいて、それで羽織る物を持って行こうと」
フウヤは手に掴んでいた鹿の毛皮を差し出そうとして、よろめいた。
ヤンは思考するよりも先に足が出て、彼を受け止めていた。
細っこくて軽い、いつものフウヤ。
「ねぇ、ここは何処なの?」
毛皮をヤンに被せながら白い子供は訪ねる。
その毛皮を寝巻きの彼に被せ返しながら、ヤンは白く霞む周囲を見回す。
「山の神殿……の筈なんだけれど」
「神殿ってあれの事?」
「??」
フウヤの指差す先、靄が流れて柱が現れ、いきなり見上げるような神殿がそそり立った。
雪の中なのに彫刻の細かい彫りまでが鮮明で、今造り上げたようにピカピカしている。
「あの中へ行けって事なんでしょ? 行こうよ、雪を避けられるし」
ヤンは後退(あとずさ)って、フウヤから身を離した。
「お前…………本当にフウヤか?」
「フウヤだよ。疑り深いな、ヤンらしいけど。なら二人しか知らない秘密を聞いてみてよ」
「マボロシは僕の心を読める。意味ないよ」
「う――ん、じゃあ、ヤンの知らない僕の秘密、話そうか?」
「えっ・・」
フウヤはいつものいたずらっぽい表情を崩さないまま、話し始めた。
「ヤンの頭のバンダナ、珍しい色でしょ。春の新芽みたいに透明な黄緑。僕、三峰に行く前、風露の関で色んな種族のヒトを見たけれど、その色を目にしたのは二回だけなんだ」
ヤンは怪訝な顔になった。いきなり何を?
確かにこの黄緑は、三峰に古くから伝わる特殊な発酵法で出す色だ。
「いっぺんは市場でヤンと初めて出会った時。もういっぺんはその前日。川柳(かわやなぎ)という村で、一人だけがその色の布を川にさらしていた」
「?? どういう……事?」
「どういう事なんだろうね。だから僕は、勝手に色々色々、考えたんだ。布をさらしていた僕を生んだお母さんは、いつ誰にその色の染め方を教わったのかなぁ、とか」
「……フウヤ……」
「それでね、確かめたくって、ヤンにくっ着いて行ったの」
「…………」
「これが僕の秘密だよ、ヤン」
ヤンはマジマジと、白い子供の薄紫の瞳を見つめた。
「分かった。お前は間違いなくフウヤだ」
***
「ねぇ、どこまで行くの?」
ユゥジーンは、終わりがないかと思える長い氷の廊下を歩いていた。
前を歩くのは、オレンジの瞳の西風の娘。
「私に分かる訳がないじゃないか。明け方、妙に現実感のある夢を見て、胸騒ぎがして里の外に出たら、目の前に小さい波紋が降りて来た。波紋の向こうにユゥジーンが見えて、飛び込んだら夢で見た神殿が立っている。だったら入ってみるのが筋じゃないか?」
「ルウ…… 罠かもしれないとか思わないの?」
「罠でも何でも進んでみなきゃ、シンリィもあの女のヒトも助けられないだろ。それにしても寒いな。こちとら砂漠の服装なんだから、招待するなら少しは気を使えってんだ」
「ああ、ちょっと待って」
ユゥジーンは自分の袖を裂いて、素足に草履履きの娘に履かせてやった。馬がいたら多少の予備は携帯していたのに、下りた瞬間ヤンともどもはぐれてしまったのだ。
「すまないな」
「まぁ俺は筋肉着てるから」
(しかし本当にまさかまさかだよな)
ユゥジーンは改めて隣のルウシェルを見直した。
最初いきなり彼女が現れた時は、波紋が見せるマボロシかと思った。
「どうした、ジロジロ見て?」
「いや、俺の脳内の生産物だったら、もうちょっとアチコチ出っ張ってくれたんだろうなぁと」
「何だ、それは?」
二人は喧々(けんけん)言い合いながら、廊下を歩く。
その廊下の裏側を、まるで鏡で逆さにしたように、フウヤをおぶったヤンが通過したが、お互いに気付かなかった。
歩いて歩いて、不安になって言葉少なになった頃、唐突に突き当たり、両開きの大扉が現れた。
高さが天井まであり、かなり重そうだ。
「これ、開けるんだよな、やっぱ」
ユゥジーンは取っ手に手を掛けたが……
「ルウ?」
ここへ来て、ルウシェルは唇を強張らせて止まっていた。
理屈より先に、本能が扉を怖がっている。
「さっきの勢いはどうした? 開けなきゃ進めないぞ」
「うん、そうだな」
ルウも意を決して、二人で協力して片側の扉を思い切り引いた。
――ギィイ・・
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