朱の月・Ⅱ
文字数 3,727文字
「そこへ降りて貰っていいか?」
砂漠の手前、三日月湖の上空、二人乗りの馬が高空気流から降下する。
ルウシェルを送って来たのは、コバルトブルーのユゥジーン。
風出流山の神殿に飛んだ一回で、ユゥジーンも馬も、何故だか高空飛行を会得してしまった。
「急に、一気に高空まで上がれるようになっちゃったんですけど。俺には縁の無い能力だと思っていたのに……」
山から帰る道々でそう言って首を捻る少年に、ナーガは微妙にムスッとしながら答えた。
「僕はちっとも驚かない。出来るようになるのは時間の問題だと思っていた。うちの母は、伸び代の無い者をひっぱたいて修行し直せとか言わないし」
「マジですか」
「はぁ、僕も最後にひっぱたかれたかった・・」
「…………」
「何か用事? 西風はもうすぐそこだぞ」
三日月湖の側の茂みに着地し、ユゥジーンはルウシェルを助け下ろしながら言った。
この西風の娘は、神殿の外に出て安心した瞬間、腰が抜けて動けなくなってしまった。
今日まで蒼の里で療養をしていたのだが、多分まだ本調子ではない筈だ。
「ルウは頑張り過ぎていきなり限界来るんだから。ヒトの上に立つんなら体調管理も大事だぞ」
「ユゥジーンはソラみたいな事を言うな」
「誰でも言うよ!」
ルウシェルは辺りを見回して、ある方向の茂みを掻き分けた。
「すまない、見ておきたい物があって。確かこっち……あっ、ここだ、ここ」
藪を抜けた所は、少し開けて踏み固められた広場だった。
真ん中に焦げた石が積み上げられ、椅子代わりの丸太と、木桶が臥せて置いてある。
多分、ここを通る旅人達が使っている野営場所だ。
ヒトの痕跡を濃く残せば、砂ミミズ等会いたくないモノとも住み分けが出来る。山や森の道沿いには、たまにこういう場所がある。
「最初にヤン達に会った場所かい?」
「違う、それはもうちょっと砂漠寄り。ここはもっと昔……」
言葉を止めてルウシェルは、土が焦げた焚き火跡に屈んだ。何十年も昔の痕跡なんかある筈も無い。
でもあの夜の火の暖かさと、氷の刃物のような翡翠の羽根の後ろ姿は、一生忘れない。
一瞬目を閉じた後、彼女は今度は湖の方向へ歩いた。
少し行くと、陽当たりの良い開けた場所に、新しい土と、青い三尺程の木の苗が数本。
「何それ? こんな所に植林?」
「蜜柑の木。蒼の里で療養している間に西風と手紙のやり取りをしただろ。ソラが、ここに植えたって教えてくれた」
「蜜柑……黄色い実のなる奴?」
「うん、親木は、大長殿の思い出の場所にあった老木らしい。ソラはそこの地の記憶から、大長殿の大切な思い出を教えて貰ったんだって」
「へえ……(何気に凄いな、ソラさん)」
ソラが言うには、老木はもう寿命が終わり掛けていたとの事。元々あまり気候の合わない土地だったらしい。
神殿の出来事の最後に大長の行った先を聞いたソラは、もう一度老木の場所へ飛び、挿し木に出来そうな若い部分を貰って帰った。そうして気候の合ったこの森に移植した。植物の知識はスオウに指南して貰ったらしい。
『物事には終わりがございますし、想い出はいつか消えるのが習いでありましょうが』
鷹の手紙の文字は堅苦しかったが、ルウシェルにはソラの気持ちが分かった。
二人は水を汲んで来て青い苗に掛けてやり、ユゥジーンは去り際にちょっと地面に手を当ててみた。
当然だが、土の感触しかしなかった。
***
風紋の地平に赤い月が刺さる。
星空に掛かっていた筋雲が解(ほぐ)れて流れ、今宵の風は月光の詩歌をまとう。
上空から降りて来るモエギ長の騎馬を、地上でソラが迎えた。
「冷えます、外套(マント)を」
「ありがとう…… ん?」
ふと見ると、砂丘の地平に漆黒の騎馬。
「あ、僕はこれで……」
と去りかける青銀のソラの前に、漆黒のハトゥンは立ちはだかった。
「今宵は貴様に用がある」
「はぃ?」
「言っていないのか、モエギ?」
「ああ、言い忘れていた。すまない、すまない」
後ろから、何だか弾んだモエギ長の声。
「砂の民の風習で、花嫁の父親に殴られておくのだとさ、花婿は」
「聞いた事もないですよ! そんな風習!」
と抗議する暇もなく、次の瞬間にはソラは、砂の上にノシ餅のように横たわっていた。
「ゔ、ゔ・・酷い・・」
呻くノシ餅の顔に一枚の羊皮紙を被せ、ハトゥンは豪快に笑いながら馬に跨がって去って行った。
「何なんですぅ・・訳が分からない・・」
横にしゃがんだモエギが、嬉しそうに目を細める。
「本当に砂の民の風習を知らないなぁ」
「だからそれが……」
「両親(りょうおや)が、娘の伴侶と認めた相手には、娘の『真名(まな)』を渡すんだ」
ソラは跳ね起きた。
懐に落ちた羊皮紙には、『空から落っこちた悪魔』とは正反対の、美しい名が記されていた。
***
「うん、いい月だ」
執務室の窓から今昇り始めた三日月を眺めながら、ホルズが柄にもない事を言った。
「こうして地平が見渡せて、当たり前に月が満ち欠けをしているのは、有り難く贅沢な事だ」
長椅子のノスリも伸びをし、二人で馬乳酒の杯を傾ける。
久方ぶりの、業務終わりの息抜きタイム。
空のゴタゴタが終焉し、草原の各部族の動揺も、ほぼほぼ治まった。
マボロシに襲われた者は一朝一夕(いっちょうせき)には元に戻らないが、時間を掛けてゆっくり回復させればいい。これ以上拡大する事がなくなっただけで何よりなのだ。
普段から地道に縁を繋いでくれていた貴方がたのお陰です……ナーガ長はそう述べて、メンバー一人一人の手を握った。
その傷だらけの指の強張り具合に、メンバー達は、結局誰も何も言わなかった。
玄関デッキを上がって来る足音。
「おや、誰か忘れ物かな」
足音は二人で、先に入って来たのは長いお下げ髪のエノシラ。
「こんばんは。あの、この方が……」
「う゛あ゛っ!」
後から入って来た、飴色の肌の男性の有り様に、室内の二人は口と鼻を覆った。
「……お久し振りです……」
「あ、ああ、久し振りっていうか……西風のシドだよな。ああ――えっと、一個づつ聞いていいか?」
「暗くて着地地点を間違えて、厩舎横の堆肥の山に突っ込んじゃいました」
エノシラが声を出す前に、シドが早口で言った。
「水あみ場を使う許可を頂けますか。エノシラが案内してくれると言うので」
律儀だな、いちいち許可とか。
「おお、構わん構わん、早く行け」
「あ、ここに来たのはモエギ長の指示です。蒼の里が色々大変な時なので手伝いに行けって」
「それは助かる。だが今は早く洗って来い」
本当に律儀だな。
彼が来るのは子供の頃の留学時以来だ。まったく変わっていなくて一目で分かったな。ノスリとホルズはそんな事を話しながら、大慌てで窓を開けて換気をした。
エノシラの案内で下流の水あみ場にたどり着き、シドはで頭から水を被ってゴシゴシ洗った。
板壁を隔てて向こうでエノシラが洗濯をしてくれている。
「あ、あの……庇って頂いて、ありがとうございます」
「いや、元より僕が悪かった。そりゃいきなり暗がりで立ち塞がられたら驚くよな。思わず突き飛ばされてもしようがない。後ろが堆肥置き場だったのは運が悪かっただけだ」
「立ち塞がられたからじゃないわ。『君の婚約者は何処だ、決闘を申し込みに来た』なんて突然言われたら、そりゃ……」
エノシラにしたら、ここでいきなりこのヒトに会ってしまったのは青天の霹靂だった。
でも優柔不断な態度を取ってはいけない。惚けて流されたらトンでもない事になるのは学習済みだ。
「その……謝りますから、どうかサォ教官に変な真似はしないで下さい。あの方は決闘のケの字も知らない穏やかな方なんです」
「分かった、サォ教官さんにはノータッチで。君の気持ちを掴めるよう、執務室の手伝いを誠心誠意頑張るよ」
「だからそういう誤解を招く発言は慎んで下さいっ」
プンスカしながらも着替えを調達に行ってくれるエノシラの後ろ姿を眺めながら、シドは素の顔になる。
モエギ長に、「ボォッとしている位なら当たって砕けて来い」と蹴り出され、ハトゥン様には「木端微塵になって来い」と笑われた。
(元よりそのつもりだったよ。木端微塵になって諦める為に来たのに。…………何でこんなにアホみたいにウッキウキしちまうんだよっ!)
***
地平に赤い月。
ほの淡い月光に浮かぶ、ハイマツの丘。
緋色の片羽根を斜めに閉じた少年が、浜辺の干からびた白蓬色の馬と共に。
最初の世界は、閉じた木枯らしの浜辺だった。
そこで『浜辺のあのヒト』と、『何処か』へ向かって歩んでいた。
それから世界が広がって
好きなヒトが出来て、
大好きなヒトが出来て、
大切なヒトが出来た。
浜辺のあのヒトは、今でも心の浜辺に暮らしている。
浜昼顔の群落で、標(しるべ)のようにスッと立ち、そこで見ていてくれている。
今、行く先を照らすのは、大切な彼らがくれた光、六連星(むつらほし)。
片羽根は風を孕み、少年を乗せて馬は、中天高く舞い上がる。
~朱の月・了~
~終章・了~
~六連星・完了 ~
ここまでお付き合い頂き まことに まことに ありがとうございました
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