西風・Ⅰ
文字数 3,728文字
砂の風紋を夕の風が撫でる。
西風の里の中心、古い宿屋の一番奥の部屋の扉を、ルウシェルはそっと開けた。
ここを取り壊さずにモエギを療養させる自宅にするのを、老人達は勿体ぶって許してくれた。
奥のベッドに横たわったモエギは、ずっと夢うつつの中にいる。
「母者……」
ルウシェルは込み上げる塊を呑み込んで、呼吸浅く体温の上がらない母の手を握った。
「一人きりにして……私ばっかり自由で楽しくして、ごめん」
何週間か前、いつものように夕の風を流しに上空へ飛んだモエギ長が、夜になっても戻らなかった。
翌朝、ルウシェルの暮らす砂の民の総領屋敷へ西風からの使者が来た。
砂の民の部族でも預かり知らぬ事と分かり、双方でヒトを出して捜索しようとしていた所に、馬だけ戻って来た。
馬の案内で、西風の里近辺の遺跡の石の上に、倒れたモエギが発見された。
呼吸はあるが体温低く、どうやっても意識が戻らない。
「娘御が放蕩しているので、心労が溜まってしまわれたのじゃ」
老人達に責められるまでもなく、ルウシェルは母の枕元に跪(ひざまず)いて詫びた。
「ごめん、母者にだけ寄り掛かり過ぎた」
そして、自ら砂の民の総領と父の所へ出向いて、西風に戻り母の側に付き添うと告げた。
「ごめん……爺さん、父者(ててじゃ)。せっかく迎えてくれたのに、私、誰の為にも何も出来なかった」
総領は何も言わずに孫娘を送り出し、項垂れて去る娘を父が追い掛けた。
「お前は自分の為に何か出来たか? ここで」
「……分からない」
「その為にお前はここに居たんだ。自分を大切にする者であってくれ」
砂の民はこの地で一番勢力があり、武闘派で名高い。
父のハトゥンは、妻が西風の長でなければ、妻が西風を大切に思っていなければ、とっくに彼女を略奪して里へ連れ帰っていた。
部族同士の力の差が雲泥な為、逆に手出しが出来ない。下手に諍(いさか)いを起こして部下を抑えられなければ、西風を滅してしまう。
総領殿も、西風の里への対応だけは息子に預けている。
状況が見えていないのは里の年寄り連中で、長娘を取り戻すと案の定、嬉々として立ち消えになっていた縁談を復活させ始めた。
彼らは長いビジョンでの里の行く末など見ていない。
目の前の物を屈服させ思い通りにする事こそが至高なのだ。
一晩砂漠の冷気に晒されていたモエギは馬が守っていたらしいが、発見された時は呼び掛けにほとんど反応しない状態だった。
ただルウシェルが呼んだ時だけ、少し瞼(まぶた)を動かした。
「蒼の里のナーガ様に診て貰いましょう」
というシドの意見は当然元老院に却下された。
老人達は蒼の里に阿(おもね)てはいるのだが、自分達より力のある者に口出しされる事を警戒している。
モエギ長の舘には、ルウシェルの留学以来、蒼の里から季節ごとに近況交換の鷹便が来るが、持たせる手紙は元老院が検閲した。
無視して飛ばそう物なら、彼らは鷹に危害を加える事も厭わないので、うっかりした事も出来ない。
身内の厄介集団は、外のそれよりも百万倍厄介なのだ。
ベッドのモエギが、覚醒していない状態で、右手を上げて空へ向けてふわりと回す。
最初、何だ? と思ったが、朝夕行われるこれで、上空の風が流れていた。
西風の長の大切な役割り。
(こんな状態になっても、これだけは果たそうとしているのか)
その母を見て、ルウシェルは決心を新たにした。
一日も早く肩の荷を降ろさせて、父の元で養生させてあげたい。
老人達だって闇雲に無茶ばかり言っている訳じゃない。
砂漠の風を流すのは、本当に大切な役割なのだ。
単純に風を流すだけなら、他にも……例えばソラにだって……出来る者はいる。
が、『西風の長が、砂漠に生きる全ての生き物の為、慈愛持ち朝夕の風を流す』という行為の、宗教的意味合いが大切なのだ。
なのに、長娘のルウシェルは、いまだに風を流す能力が芽生えない。
ソラに付いて修練は積んでいるが、本当に切っ掛けすら掴めていない。
元老院が、砂の民との混血の彼女よりも、血筋の濃い者との子孫に望みを託すのは、当然と言えば当然な考えだった。
直系でなくとも長の血の系統は幾つかに別れて存在する。
そして概ねが元老院の息の掛かった家だった。
ルウシェルは母の寝室を出て、廊下を歩いて右の二間をぶち抜いた広間に入る。
正面に金銀で飾られた裾長の衣装が掛けられ、その前で、顔色の沈んだシドとソラが振り向いた。
「母者は、今なら具合が落ち着いているから会える」
「はい……」
「豪華だろ。昨日仕上がって来た。婆さん達張り切るのはいいが、あれこれ縫い付け過ぎだろこれ。絶対重くて身動き取れないぞ。婚礼衣装って普通そうなのか?」
「…………」
「それはそうと、花婿がまだ決定しないとか、笑ってしまうだろ。明日だろ、婚礼の儀式。そんなに私の相手が嫌なのだろうか?」
「老人達の間で、自分の派閥から花婿を出したい争いが勃発して、長引いているようです」
「はは、こっちはようよう決意してやったのに、何やってんだか」
「…………」
「ああ、早く母者に会いに行ってやってくれ。母者は二人が大好きなんだ」
シドとソラが反応の無いモエギに挨拶して廊下に出ると、ルウシェルは、窓枠に肘を掛けて空を眺めていた。
声を掛けずに外へ出て、二人も空を見上げた。
夕空に、羽毛のように綺麗な筋雲が流れて行った。
「そこを通してくれ!」
正面に元老院の老人達が数人、徒党を組んで立ちはだかった。
どうやら花婿が決定したようだ。
「長娘殿と明日の打ち合わせがあるのじゃ」
老人達は、父親が付けたルウシェルの名前をけして口にしない。
二人が片側に避けて道を空けると、老人達は一寸すら寄らないで横並びのまま、そこをノシ歩いた。
すれ違いざま、「厩番ふぜいが」と、腹話術のように言うのが聞こえた。
二人は黙ってそこを去った。
慣れっこだし。
自分達が厩(うまや)で育った事を恥じた事はない。
里の皆の命を預かる馬達の管理を幼い頃からやり通した事に誇りを持っているし、モエギ様はいつだってそう言って二人を誉めてくれた。
ただ、今現在自分達を西風に繋ぎ止めているのは、モエギ長への忠誠心と、過去に西風の再建に尽力してくれた蒼の里の駐在者との思い出だけなんだと思うと、やるせなさは隠せなかった。
「シドせんせ――!」
修練所の坂道を五、六人の子供が駆けて来る。
シドは本職が教官だし、ソラも里に居る時は講義を受け持ったりしている。
「あっ、ソラせんせだ! おかえりなさい――」
「ああ、皆、元気だったか?」
そうだ、この子達もいたな…… 二人は穏やかな表情になって、子供達の目線に屈んだ。
「ね、ね! 長娘さま、やっぱり同い年で一番だったね」
ルウシェルより三つ四つ年下の女の子が言った。
「私も早くケッコンして、コドモ生むんだ。私は純血だから純血の子とケッコンして一杯コドモ生みなさいって、僧正様が」
「…………」
そんなに大昔でもないのに、蒼の里の駐在員が居た頃は、こんな事を言う子供はいなかった。
二人はまた額に陰を落とし、自分達の無力にため息を吐く。
***
――ちっけった!
――ほぉらった!
西風の里近くの砂漠の遺跡の石の上。
輪になってジャンケンをしている三人の少年。
ヤンとフウヤとユゥジーン。
「ああ、またアイコだ」
「おい、そもそも、勝った者が行くのか? 負けた者が行くのか?」
「勝った者でしょ。負けた者にしたらルウにぶん殴られる」
気合いで西風の側まで辿り着き、結界の内側へ入る経路も確認した三人は、ルウシェルの婚礼が明日だと漏れ聞き、急遽作戦会議を開いた。
そして、式の直前、里の者が浮かれて油断している最中に、突然ルウの相手に決闘を吹っ掛け、場合によっては唐辛子玉総動員で花嫁を拐う、というゴッタ煮案が成立した。
「大丈夫なのか、それ?」
「砂漠を旅した時、この辺りでは女性を巡っての決闘はポピュラーだって聞いた。申し込まれたら受けるのが義務だとも」
取り敢えず今はルウの本心が分からない。
里の警戒が厳しくて住んでいる所も分からないし、会えたとしても、ここまで決心している彼女は、本当の所は言わないだろう。
式をぶち壊す者が現れて咄嗟にどんな表情を見せるかで、自分達の後の行動を決める、という事で相談は落ち着いた。
で、その『ちょっと待ったぁ! 係り』が、三人の間で争奪戦になっているのだ。
「いや俺でしょ、いざとなったら草の馬で逃げられる」
「蒼の一族の成人が行って、真面目に話が進んだらどうするんだ。ここは僕が行く」
「ず――る――い――! 僕も僕も――」
「よし、勝負付けるぞ」
「恨みっコ無しだぞ」
「せーの!!」
――ちっけった!!
今度こそ勝負が着いた。
グーが三つにパーが一つ!
………………ん??
長い指のパーの手は、三人の後ろの高い所から伸びていた。
「やったあ! 私の勝ちです!」
「大長――!」
「河原のヒト!」
「ナーガさんのそっくりさん!」
濃い群青色の髪のそのヒトは、ジャンケンに勝ったパーをかざして嬉しそうに言った。
「で、何のジャンケンだったんです?」
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