星の雫・Ⅵ
文字数 3,651文字
時は少し遡る。
風出流山(かぜいずるやま)の神殿。
空には糸のような三日月。青く溶けて地平に沈もうとしている。
エントランスに佇む白いヴェールの女性。
彼女はずっと、自分の手を見つめて止まっている。
多分、もう自分が抑えていられるのも時間の問題なのだ。
最初は小さくひっそりと、幽かな息吹と共に力をつけ始めた、神殿の奥に封じ込まれたモノ。
何故力をつけ始めたのか分からない。何処からエネルギーを得ているのか分からない。
「兄様も、ナーガも、シンリィも動いてくれている。なのに未だにこれを抑えられないのは、私(わたくし)の落ち度だわ。私の力が足りないから」
ふと、棚の端のケルンの側の空間に小さな穴が開いているのに気付いた。
穴のあちら側から幼い手が伸びて、草原の名もない小花をケルンに散らせる。
シンリィだ。
そういえば『見る者によって姿が違う赤い狼』は、この子の瞳にはどう映っていたのだろう。
子供は穴から顔を覗かせて、片えくぼを見せる。
女性は片手を軽く上げて微笑んだ。
何て可愛らしく稚(いとけな)い子供だろう。
ああ、犠牲になるなら一度禁忌の術に救われた自分だけで良かったのに。そのような身で人並みに幸せなどを感じてしまったから、罰が当たっているのだ……
ーーーー!!!ーー
シンリィの叫びが頭に響いた。
いつの間に、女性の周囲、神殿全体が、波紋の歪みに包まれている。
足下の階段が波打ち、氷柱が積み木のように崩れて行く。
建物の内部から黒い霧が吹き上がる。
何を出来る間もなかった。
全てが砕け真っ暗な奈落が開き、彼女は何も出来ずに深淵に吸い込まれる。
***
風出流山と蒼の里の間に、人間の帝国の過去の王都がある。今は朽ちて打ち捨てられた廃墟。
その西にこんもりと繁る鎮守の森。昔は禁足地と定められていたが、周囲に人間の住まない今は関係がない。
荒れ果てた中央広場に枯れた蜜柑の大木があり、樹上に立つは長い髪の大長。
「おかえりなさい。……何が見えました?」
樹下の草の中で、先程から地面に両手を付いて集中していた青銀の髪のソラが、ぶはぁと息を吐いて前のめりに倒れ込んだ。
「はあ、禁足の森でもヒトは来るんですね。色んな人影が雑多に。でもこの広場が一番鮮明に記憶しているのは、一人の妖精の子供がここで暮らしている風景でした。薄い空色の髪の女の子。少しずつ成長して、男の子を産んで、その子に剣を教えたり。でも子供は人間との混血な感じで、母親を追い抜いてどんどん歳を取って……」
「素晴らしい」
樹上の大長は目をしばたかせながら青年を見下ろした。
「『地の記憶を読む術』は、ほぼほぼ完璧ですね。本当に覚えるのが早い」
「忙しい中なのに、教える時間を割いて頂いたお陰です」
「基礎(ベース)がきちんと培われていたからですよ。広い器が作られていたから、今、沢山入る」
ソラは膝の土を払って立ち上がった。
ここの所、大長は術の指導や説法に時間を割いてくれている。
有難いのは有難いのだが、彼が波紋を叩くのを後回しにして自分を育てる事に重きを置き出したのに、胸騒ぎを覚える。
聞くのが怖くて口に出せないが。
「地の記憶の女の子、最初、ユユさんの子供の頃かなと思ったけれど、違いました。どなたなのです?」
「私の妹です。ユユの母親」
「ああ、道理で」
「今は風の神の神殿で守り人をやっています」
「神殿……」
そこまで話した所で、不意に地面に影が差し、二人はハッと顔を上げた。
音もなく空が揺らぎ始めている。
「ソラ、貴方何か陰気な事を考えました?」
「あ、すみません、ちょっとだけ」
「まあこの広場は昔の結界がまだ効いているから、波紋はあれ以上下りて来られません。シンリィも来ていないようだし、一撃入れて離脱しましょう」
大長は波紋を見据えながら、手の中に術の光を滲ませた。
と、木の梢まで迫っていた波紋の真ん中に、いきなり穴が開いた。
「じじさま!」
紫の前髪の娘が、半泣き顔で飛び下りて来た。
「お山の……お山の神殿がドカアンって。あたしビックリして足が動かなくて。地面に穴が開いて、しんりぃが飛び込んで行って」
大長の顔色が変わる。
「あの子は!? 守り人の女性がいたでしょう?」
「わ、分かんない。とにかく神殿もみんなバラバラで、大きな穴しか残っていなくて」
「!!!」
ソラは師の唇が震えるのを初めて見た。
だが次の瞬間、大長はサッと切り替えた。
自分が折れてはいけない人生を、彼は永々(えいえい)と生きている。今もだ。
「ソラ、高空気流はもう使えますね。今すぐ西風に戻りなさい」
「え……いえ、最後までお供します」
「泣きわめく幼児が見境を無くすと、次は大切なモノを次々と壊して自己顕示を始める」
「ぁ・・!! は、はいっ!」
ソラは瞬時に理解して、茂みから怯えながらこちらを見ている馬の所へ走った。
「大長様、ありがとうございました。いつか必ずや御恩をお返し致します」
「はい、楽しみにしていますよ」
青銀の妖精は力強いロケットスタートで、波紋に触れる間さえ与えず、一瞬で夜空の彗星となった。
数ヶ月前、花嫁を拐った時のヘロヘロした飛び方とは雲泥の差。今なら多分何が来ても、西風を守る強靭な盾となれるだろう。
大長も即座に出発すると思いきや、馬と共にいた鷹を呼び寄せて、何やら手紙を書いている。
「もぉ、じじさま、早くぅ!」
急いて夏草色の馬によじ登ろうとする娘を、大長はひょいと抱えて、蜜柑の木の低い枝に座らせた。
「
ナーガ・ラクシャの愛し子よ、ここに座っていなさい
」「……じじさま?」
「リリの役割はここまでです。そこの波紋が何処かへ行ったら、この鷹を飛ばしなさい。じきに蒼の里から迎えが来てくれます」
「え」
翼に白い帯のある鷹を膝に乗せられ、娘はポカンと口を開く。
「安全になってから風露のお母さんの所へ送って貰えるよう、手紙に書いて置きましたからね」
「い、いやだ、あたしもしんりぃを助けに行く!」
立とうとしてリリは、お尻がガッシリ太い枝に吸い付いている事に気付いた。
「じじさま、ずるい!」
「迎えが来たら外れる言霊だから大丈夫ですよ」
「いやだいやだいやだ! 一緒に行く!!」
子供がどんなにごねても叫んでも、大人はとっとと大きな馬に跨がって、飛び立って行ってしまう。
本当にどうにも出来ない。悔しい、無力だ。悔しい、悔しい、悔しい!
小さくなる夏草色の馬を睨み付け、リリは歯軋りして涙を流す。
膝の鷹が雫を嫌がって、頭の方へ移った。
鷹の重みで頭に項垂(うなだ)れながら、娘は更に嗚咽する。
呑気にしていなければよかった。
術を教えてくれるヒトはすぐそこに居たのだ。
もっとしつこく頼めば、そう、ソラさんみたいにグイグイ行けば、ちゃんと鍛えて貰えたかもしれない。
そうしたら、ああいう風に、いざという時頼もしく、任せて貰える者になれたのだ。
なのに、呑気に綾取りしたり愚痴を喋ったり。
まだ大丈夫だと思っていた。こんな日は急に来ないと思っていた。
だから置いて行かれるのだ。
しんりぃを助けに行けないのだ。
悔しい、自分のせいだ、悔しい、悔しい・・!!
滲んだ視界に、波紋の中にぽっかり開いた大穴が見えた。
自分の出て来た穴が、まだ塞がっていない!
***
「いや、やっぱりヤンは、下宿の部屋で待っていて」
蒼の里近くの草原。コバルトブルーの馬に二人乗りの少年達。
遠くの山を見据えながら言うユゥジーンに、三峰の少年は真面目な声で聞いた。
「どうして?」
「ここから先はマジやばい」
「ふうん、どうやってあんな高い山まで行くつもりなの?」
「気流を探し探し昇るよ、それしかない」
「そんな事をやっている間に波紋が空を覆い尽くしちゃうよ」
「じゃあ何かあるのかよ…………・・・あるのか? ねぇ、ヤン」
「僕も一緒に連れて行く?」
三峰の少年の出したアイデアは、確かに無茶苦茶なモノだった。
山に向いて、斜めほぼ真上に向いて、空の波紋にこちらから吸い込まれる。
理論上は、短時間でユゥジーンの能力以上の高度を稼げる筈だ、理論上は。
「大長様に言われたように、上がり過ぎて、ヤバい空間に放り出される可能性もあるぞ」
「だから僕の『眼』で見る。一回シンリィに連れて行かれた丸い地平の景色、あの辺が多分僕らの限界高度だ。地平があの角度になる一歩手前で教えるから、空間に穴を開けて飛び出してくれ」
「簡単に言うな」
「無理か?」
「行くよ、ヤンこそいいのか? 関係のない一介の草の根の民だろ」
「本気で言ってる? 関係あるよ。僕がこの世界に生きる一員でないとでも?」
波紋に向かってぐんぐん昇る馬の上。
ユゥジーンの背を見つめながら、ヤンは柄にもない自分の台詞を反芻して、苦笑した。
違う、本当は、アレだ・・
「友達に危ない道を提案して、『じゃあ頑張ってね』なんて言える訳ないだろ、カッコ悪い」
~星の雫・了~
~六連星・Ⅳ・了~
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