呼び声・Ⅰ
文字数 4,379文字
前章より一か月後
***
「フウヤ、ここまでだ。今回は諦めよう」
疲れきった顔のヤンが言った。
「僕はまだ動ける――っ」
そういうフウヤだって、膝が震えてもう一歩も足が上がらない。
斜面に転がるは、今朝方仕留めた大猪。
ヤンが前年から目を付けていた、首の周りが金のたてがみになっている奴だ。
二人の体重を足して尚余る獲物を、半日かけて谷から引っ張り上げた。
精一杯高い所まで追い込んだのだが、元より猪はあまり峰方には登ってくれない。
「せっかくここまで来たのに……」
「これ以上は命を貰った猪に失礼だ」
フウヤを見張りに残して、ヤンは集落へ助けを頼みに走った。
程なく、眉毛を下げた大人の男達が担ぎ棒を手に降りて来て、見事な猪に目を見開いた後、気の毒そうに二人の少年を見た。
集落に猪が運ばれ、厄落としが済んで解体される広場で、イフルート族長が、項垂れる二人の少年の肩を叩いた。
「見事な金毛だ」
「運べなきゃ意味ない」
「いやフウヤ、ヤンの判断は正しい。あれ以上時間をかけていたら肉も毛皮も悪くなる。恵みを頂いた山に背く行為だ。自分の名誉よりもそちらを優先させたヤンを、俺は誇りに思う」
肉を分配しながら男達も、残念だったな、次回頑張れよ、と声を掛けてくれた。
フウヤは始終悔しそうだったが、ヤンはいつも通り控え目だった。
肉を抱えて桑畑の脇の帰り道。
「フウヤ、今日はごめんな。頑張ってくれたのに」
「僕はいいよ。どっちかというとこの、『獲物を持ち帰るまでが成人の試練です』ってルールに腹立って来た」
「はは・・」
「次は小っちゃ目の猪を狙お。皆、何だかんだ言って、今回の事も考慮に入れてくれるよ、ね、ヤン……ヤン??」
振り向いてフウヤは、肉を抱えたまましゃがみ込んでしまっている相棒に、泡喰って引き返した。
「ど、どしたの、ヤン、ヤン!」
旅の猟師小屋の悪夢がフラッシュバックして、背筋が冷たくなる。
「はあ――・・」
「ヤン?」
「去年から目を付けてたのにぃ……育ち過ぎなんだよ、あいつ」
「……うん」
フウヤは短く返事して、ガックリ脱力している相棒の背中をポンポン叩いた。
こうやって、挑戦しては挫折して落ち込んだりしながら、三峰の子供は成人への坂道を登る。
「あっ、空!」
フウヤが声を上げた。
空の真ん中で、青い布を巻き取るようにシワが入り、雲が一筋吸い込まれた。
見ているとそれは薄くなって、何事もなかったように消える。
「まただね」
「うん……」
「何なんだろ? ヤン、分かる?」
最近よく起こるそれを、空を眺める癖のある二人は気にしているが、周囲の大人はあまり気付いていない。
天気に関係もなさそうだし、空の事は自分達に無関係っちゃあ無関係なのだ。
「壱ヶ原の街の投函箱にも、あちこちの旅人から空が揺らぐのを見たって情報が入っている。すぐに消えるそうだけれど……何か、嫌だよね」
「うん、嫌な感じ」
「蒼の里に報せた方がいいと思う?」
最近ヤンは、文通相手経由で、蒼の里へ手紙を送るルートを確保している。
もっとも何人かの手を介するので、金銭や大切な品は送れないし、時間も掛かって実用的ではない。
イフルート族長がナーガ長宛てに親書を送ってみたら、驚くほど丁重な返事が来たと、子供みたいに喜んでいた。
「僕らが気付いている位だから、知らないって事はないんじゃない? 族長さんじゃあるまいし、あんま余計な手紙を送って煩わせるのもね」
***
空に水の揺らぎの影が滲んで、音もなく渦が巻き始める。
真下の丘に、コバルトブルーの髪を逆立てたユゥジーン。
「めっちゃ吸い上げられるじゃん、こわっ」
両手で胸の翡翠のペンダントを握りしめる。
震えるのか? 本当に震えるのか?
『シンリィが来なければ手出ししないで見過ごすように』
ナーガ長にはそう言われている。
事実、今まで何度か空の揺らぎは見たけれど、ペンダントは震えず、何事もなく消えてしまった。
しかし今日ここで見付けた渦は、雰囲気が違う。
何が違うって聞かれても答えられないけれど、とにかく違う。
(始末が必要な物は明らかに分かるって言ってた。これがそうなのか? そうなのか?)
握った手の内側がじんわりと汗ばむ。
――トクン
!? 今、動いた? と思った瞬間
ブルブルブルッ ――震えたぁっ!
結構激しい。これうっかり胸に下げたままだと心臓止まるぞ。
手を開くと、呼吸するように明滅する翡翠のカケラ。
(来た来た来たぁっ!!)
渦は波紋を広げながら、空から雫のように垂れて来ている。
慌てて左右の二刀を握る。
(どのタイミングだ? どのタイミング……)
雫、いまにも落ちそう。
――トクン
ペンダントから最初と同じ感触。
(今かっ!)
剣を抜く、振り上げる、呪文を念じる、柄から圧力が伝わる。
――破邪!!
後は光の洪水。
渦の向こうに目を凝らしてみようと思っていたが、眩しくてとても無理だ。
「うわっち!」
剣の振動がいきなり止まって、反動で尻餅を付いた。
事は終わったようで、空の灰色が散り散りになって消えて行く。
俺がやったのか……? 実感が湧かない。
ナーガ様から預かっていた術を撃ち込んだだけだもんな。
「来ていたのか? シンリィ。俺の事、気付いてくれたかな」
***
「さっきの子、ゆぅじんだったね」
水底の揺らぎの空間。
穴が塞がるまで地上の少年をじっと見つめていた羽根の子供に、リリは話し掛けた。
「しんりぃのお友達なんでしょ。ほらこれ、あの子のなんだ。大切な物だって言ってた」
リリは、自分の首に掛けている羽根入りの御守り袋を指した。
羽根の子供は山吹色の袋を見てフワッと微笑み、ゆっくり歩いて愛馬の足元に座り込んだ。
リリも隣に行ってしゃがむ。
「疲れたの?」
子供は頷くように、女の子の肩に首をもたせ掛けた。
「ねぇ、しんりぃ、あんたが喋らないのは慣れたけれど、あんたの気持ちを分かるのにちょっぴり時間が掛かるのが珠に傷だわね。喋っても喋っても何も通じないよりはマシだけれど」
この水底みたいな空間は、二人の他はほぼ誰もいない。
(最初に出会った『マボロシさん』には、結局あの後会えていない)
どこで座り込もうが寝転ぼうが、誰の邪魔にもならない。
リリは適当な物語を唄にして口ずさみながら、大長に貰った毛糸で綾取りを始めた。
一人でお喋りするのにも慣れた。
シンリィがまったく聞いていない訳でも無いからだ
好きなだけ起きていて、好きな空想を好きなだけ唄って、どんなにうるさくしても夜更かししても、誰にも叱られない。
まぁ、波紋の渦は昼夜関係無く現れて、即出動だから、好きなだけ寝ている訳には行かないのが、ちょっぴり残念。
綾取りに飽きてリリは、毛糸を髪に巻き付けた。
白蓬が腹を向けて身を横たえたので、熟睡している水色の頭をそちらに預けて、立ち上がる
散歩。
この、水底みたいにユラユラ揺れる空間を探検するのが、彼女が最近凝っている遊びだ。
ぽぉーん、ぽぉ――ん
重い空気を手で掻くと、結構高い所まで浮遊出来る。
要は水の中と同じ。
バランスを崩して転ぶのもゆっくりで、痛くない。
無理に早く動こうとしなければ意外と快適なのだ。
少しづつ対流している周囲の『壁』に、パン生地に穴が開いたような楕円の窓が開く。
向こう側は、元々いた『現実世界』だ。
それがまた、足の下に空があったり天井から山が逆さに垂れていたりで、面白い。
見知った形の山もある。
でもそんなに変わった景色はない。
見渡す限りの深い色の水とか七色のお花畑とか、古い大きな石の建物とか切り株で出来たおうちとか、そんな知らない世界が見られるかなぁと思って散歩を始めたのだが、そうでもなかった。
「この空間にも位置の概念はありますからねぇ。あんまり極端な遠くまでは覗けないです。まぁ、距離はかなり短縮していますが」
「ガイネン? タンシュク? じじさま、よく分かんない」
たまに意識だけ飛ばしてやって来る大長は、リリに様々な知識を与えてくれた。
父さまの叔父さんっていうから、彼女は『じじさま』と呼んでいる。
水底の空間は『現実世界』の裏側に流れていて、それなりに繋がっているんだって。
ただ、こちらの空間から距離をタンシュクさせる事は出来る。
だからシンリィは、こちらの世界の空気の流れから波紋の発生を察知して、『現実世界』のどこで渦が現れても、短い時間で駆け付けられる。
白蓬の後ろに乗っけて貰うと、ひと掻きでギュンッと進んで、窓から見える風景が一気に飛ぶ。
『距離』と『時間』のザヒョウをずらす……それはシンリィの才能だという。
リリにはイマイチ理解出来ない。
「あたしにも出来るようになる?」
「ふむ、リリなら可能性は高いですね。自分の馬を得て乗れるようになれば、もっと凄い事が出来るかもしれません」
何を聞いてもじじさまは、子供扱いしないでちゃんと答えてくれる。はぐらかしたり話の中心をずらしたりしない。
リリは大長と話をするのが、かなり好きになっていた。
「本当、いつ? 幾つぐらい寝れば馬が貰えるの?」
大長は目を細める。
「七歳の秋ですが……リリにとって七歳というのは、気の遠くなる遥か先なのでしょうね。私達から見ると多分あっと言う間なのですが」
「へぇ、それも時間のザヒョウがずれてるって奴? じゃあ、あたしが大きくなるのが早いのも、ザヒョウをずらす才能があるのかな」
「・・・・・・」
「じじさま?」
「あはは、リリは実に面白い。物を考える才能が凄い」
その他にも大長は、世界の成り立ちとか歴史とか、様々な事を教えてくれた。
術も教えてって頼んだけれど、そこはシンリィを見て覚えなさいと言われた。
大長にしてみれば、身体だけは大きいがまだ二歳のこの娘に、教えてもいい物かと躊躇していたのだが、リリの身体は受け付ける術から自然に身に付けた。
そうしてすぐに『空間に穴を開ける術』をマスターし、現実世界にじじさまを見付けると、穴を開けてお喋りをしに来るようになった。直接触れ合えれば、物を渡したりも出来る。面白いお話に、お菓子や蜂蜜。けれどリリが一番喜んだのは、シンリィの羽根と同じ色の毛糸だった。
ぽぉん、ぽぉんの散歩から戻ると、シンリィは起きて、馬の腹帯を締めていた。
「出動?」
羽根の子供は先に乗馬して、リリに手を差し出す。
女の子が跨がると馬はすぐに上昇して、空を掻き出した。
いつもよりゆったりと大掻きしている。
「長距離なのね」
大人しく後ろに掴まっていると、知った景色は飛んで行き、縦長の大きな窓には、細長い森と三日月形の湖、そして見渡す限りの砂の原が見えた。
「知らない景色だ!」
行った事のない場所!
リリの小さな胸にワクワクが広がった。
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