鼓動・Ⅲ
文字数 2,646文字
北西の山岳地帯。
朧の月の霧の中、白い頂の白い神殿。
そう、ここは風出流山(かぜいずるやま)、風の神を祀る太古からの霊峰。
この星を巡るすべての風が生まれ、還り来る場所。
神殿奥の廊下の凍結を終えた女性は、足元から氷のカケラを一切れ拾い、玄関エントランスを通って外へ出た。
朧月は先程よりは少し晴れ、ここで同じ月を幾星霜見続けた守り人のヴェールを、青く縁どる。
「母上」
女性が振り向くと、群青の長い髪に雪を散らせた険しい顔の、彼女の息子が立っていた。
ああ、もう蒼の長殿と呼ばねばならないが。
彼がここを訪れるのは、長の襲名を報告に来て以来だ。
北の草原を統治する蒼の長を引き継いだ彼、ナーガ・ラクシャは、母を気に掛けつつも疎遠にならざるを得ない、多忙な月日を送っていた。黒い災厄の後片付けで、眠る暇すら無かったのだ。
だから、三年半振りに来るこの神殿の変わり果て様に、今、続きの言葉を失くしている。
いつもなら、守り人の母の発する生命力が、神殿(ここ)を生き生きと保っていた。
このようにあちこちひび割れて荒れた風体を晒すなど、あり得ない事だ。
「久し振りですね。随分夜更かしな訪問だこと」
雪がこびりついて形を失くした彫刻の前で、女性は表情を動かさずに言う。
夜中にしか来られなかったのは、個人的な忍びの訪問であるからだ。
地上が混乱し始めている今、昼間の蒼の長に、自分の私事で動ける時間など無い。
「母上、貴女が守るこの神殿の、深奥に封じられたモノ。薄くは知らされておりましたが、一体今どうなっているのか、詳しくお話し頂かなくてはなりません」
女性が、隈の出来た目を鋭くして硬い表情をしたが、息子は構わず続けた。
「敏い子供がおりましてね。空も飛べない術も使えない一介の山の民でありながら、空の波紋とこの場所の関連を突き止めた、恐ろしく分析力の高い子供です。手紙を開いた時、胆が冷えました。
彼は特別かもしれませんが、この山がヒトの口端に上る日は遠くないでしょう。そうなる前に決着を付けてしまいたいのです」
「そうですか……」
女性は、ローブの裾をひるがえして雪原の端まで歩いた。
その先には、氷の破片を積んだケルンがあった。
「貴方への警告が遅れてしまったのは、私の所為です、すみませんでした。封印の奥の者が何故こんなに急に過分に力を増したのか、何処からあんなにエネルギーを得ているのか、分からないのです」
手にしたカケラをそこに重ねながら、彼女は言う。
「彼なら分かったかもしれませんが」
息子は眉間にシワを入れ、険しい表情になる。
「それは、『あいつ』の墓ですか?」
「カタチだけ…… 元々実体の無いような存在でしたから。ケルンは生きている者の拠り所です。元来お墓ってそういう物でしょう?」
・・『欲望の赤い狼』
『あいつ』と母の関係は、長の襲名の報告に来た時、ナーガはここで聞かされた。
神殿の事も祖先の所業も、異界で見聞きして教えてくれたのは、彼だという。
『味方ではありませんよ、気紛れに教えてくれるだけです。欲望から外れたら彼は消えてしまいますから』
そうは聞いても、ナーガは受け入れがたかった。
幼い頃から狼に付き纏われて、散々心を抉(えぐ)られた。心底相容れない、大嫌いだった。あいつだけは受け入れられないという思い。それが三年半も足が遠退いた原因だったかもしれない。
「矜持から外れ過ぎたのでしょうか、だんだんに力を失くして。シンリィがずっと寄り添ってくれていたけれど、ある時とうとう、狼だけが帰って来ませんでした」
今重ねたカケラが、カラカラとケルンを滑り落ちる。
(己の寿命を悟った狼が、自分の後釜に据える為に、シンリィを連れ去った……それについては何とも思わないのですか)
ナーガはぐっと呑み込んだ。言いたい事は山程あるけれど、今はこれからの事を話すのが先だ。
波紋のエネルギーの出所も分からないが、何より奥の者の目的が分からない。
大長は、裏切者(蒼の一族)への自己顕示だと言っていた。しかし多分、それだけじゃない。
こちらから相手に接触するには、神殿奥の氷を割らねばならない。
すなわち封印を解く、相手方をまったくの自由にする。それは賭けだ、危険過ぎる。
息子の心情を分かってか、母は先回りするように続けた。
「『羽根の護り』という言葉は知っていますね」
「え? はい、青年時代、文献で見たその言葉を口走った時、父に大層叱られました。先祖に伝わる禁忌の術ですよね」
「その術が原因で、先祖同士が袂を別った話は?」
「長を襲名した時、ノスリ殿に教わりました」
『羽根の護り』・・
太古、風の民の祖先は、己を守護する羽根を持っていた。
多大な術力を含み、疫病をも跳ね返す、まるで神になったかと勘違いしてしまうような羽根。
生まれながらに持っているのではない。死にゆく祖先が、自らの意志で羽根になって子孫を守った。
元々はそういう物だった。それだけの内は、理(ことわり)の範疇だった。
誰かが発見した。羽根は奪える、複数持てる、持てる数だけ力を増せる。
誰かが構築した。知識のない者を拐って羽根にする方法。
当たり前のように争いが起こり、当たり前のように高貴な一族は泥に塗(まみ)れる。
一言で語ってしまうには多分申し訳ない程の苦難の末だったろうが、良心の残った一団が、彼らを封印し、山を降りた。
そうして馬(風の末裔)を得て、蒼の一族となる。
「草原の平穏が蒼の長への信仰を礎に成り立っているのなら、とても語り継げませんよね、そんな黒い歴史。今回の災厄が、目を覚ましたその祖先の所業だという事も」
女性は屈んで氷の欠片を拾い、それをまたケルンに重ねた。
「祖先の目的は……多分、羽根の護りを、地上に知らしめる事だと思います」
「は? そんな事して、何が……自分達の、恥、でしょう?」
「それは、恥ずかしいと思う心があれば、です。彼らにあると思いますか?」
「…………」
「自分は沢山持っているのですもの。それが羨ましがられて、崇められたら、楽しいでしょう?」
「いやまさか、幾ら何でもそんな」
「深い考えなんか無い、ここに居るのは、ただの妄執の塊ですから。子供みたいな」
ケルンに載せた氷は他の氷も巻き込んで、ガラガラと崩してしまった。
「ナーガ、彼らにとってはただの児戯。でも蒼の一族にとっては……分かりますよね」
ナーガは蒼白になって頷いた。
~鼓動・了~
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