愁雨(しゅうう)・Ⅰ
文字数 2,406文字
「戻りました」
執務室の御簾を跳ね上げて、ユゥジーンが快活に入って来た。
砂漠から戻って一ヶ月と少し。季節はもうすっかり秋だ。
「降って来たか?」
長椅子で雨衣の手入れをしていたメンバーの一人が、そのままの姿勢で聞いた。
「ええ、降ったり止んだりですね」
この季節に雨は多いのだが、こんなに途切れなく連日降り続くのも珍しい。
空気も気分も湿りがちになるが、こんな時こそ明るく振る舞うのが最年少の自分の役割だと、ユゥジーンは健気に心得ていた。
何せ職務を放棄して勝手に西風に飛んだのを、全員の靴磨き程度の罰則で許して貰えたのだ。
ただ、波紋の渦を利用して砂漠までの距離を縮めた所業は、やっぱりドチャクソ怒られた。
ナーガ長が髪を逆立てるのを久し振りに見た。
「さぁて、報告書、報告書っと」
「お前はめげないな」
大机のホルズが、いつもより濃密な報告書の束をチェックしながら、溜め息を吐く。
「まぁ、気にしなきゃいいんです」
「そうか……」
執務室の仕事をこなす他のメンバーは、かなり神経をやられていた。
ここ何日か、訪ねて行った部族で、皆もれなく、大なり小なりの理不尽な目に遭わされていた。
それがキッパリした敵対心ならまだいいのだが、一見変わらぬ相手が、なだらかに話が通じなくなって行くのだ。
良い関係を築けたと思っていたのに後戻り、何の成果も得られず帰る事もしばしばだ。
そういう小さな徒労が重なって、メンバーの中に見えない疲れが蓄積されていた。
蒼の里の執務室に限った事ではない。
それまで親しく付き合っていた隣人が豹変したら、誰だって不安を抱くだろう。
不安な空気が隣近所を包み、集落を包み、近隣の村にも伝播する。
そうしてその地方の空全体が、不穏に波打ち始めるのだ。
「目に見える魔物や抗争の方がマシだな」
雨衣の修理を終えたメンバーは、重そうな腰を上げて泊まりの任務に出掛けて行った。
空の揺らぎの存在は、ユゥジーン以外のメンバーにも知る所となっている。
ナーガ長が、波紋の特性と、見付けたら逃げろという事だけは伝えた。
波紋の出所は言わない。
もしも知ってしまったら、メンバーは、『信用されていない』と傷付くかもしれない。
(それでも背負わされるよりはマシなんだ)
書き終えた報告書を提出して、ユゥジーンは静かに息を吐いた。
誰も死傷していないし一見大きな変化は無い。
でもこれは穏やかな侵略だ。
皆が欲を剥き出し、譲ることをやめ、独り占めをし、それを恥ずかしいと思わなくなる。
色んなバランスが崩れ、水や食料は片寄り、弱い者が窮し始めている。
「ナーガ様は?」
「里奥の放牧場。結界を張り直している」
「また?」
「この里に波紋の侵入を許したら最後だからな」
「最後……」
ホルズの言葉を、ユゥジーンは神妙に反芻した。
雨足が強くなる中、ユゥジーンは雨衣を携えて放牧地への坂を下った。
遠目に、空に向かって打ち上がる呪文の光跡が見える。
それは里の上空で半球状に広がり、慧砂のように瞬いて闇に吸い込まれる。
土手を登ると、雨にけぶる放牧場の中心に、呪文を結んでは空に送り出すナーガが立っていた。
「ナーガ様」
ユゥジーンは土手を滑り降りて駆け寄り、雨衣をずぶ濡れの背中に被せた。
「ぁ、ああ、ユゥジーン」
髪に雨垂れをしとどおらせたナーガが、ハッと我に帰って振り向いた。目の下に隈を作って、頬には窪んだ影が出来ている。
「雨衣をお持ちしました。どん冷えじゃないですか、倒れても知りませんよ」
「え? あぁ、いつの間にこんなに降っていたんだ」
「…………」
二人土手を登って、執務室へ向かう。
頭上には張ったばかりの結界が、薄く砂を撒いたように煌めいている。
「あの、俺、今日の任務、東の山岳方面だったんです」
「ん?」
「それで、風露(ふうろ)に寄ってみたんです。通り道だったから」
楽器作りの集団、風露の谷には、ナーガ長の奥方が職人として暮らしている。
「風露は波紋の被害は受けていないとの事です。関の番人の話によると、見掛ける事はあっても、風露の上空は通過して、降りて来る事はないって」
「ああ、そうだろうね。見事にストイックだもの、あの集落は」
「ただ……」
「どうしたの?」
「楽器の注文が途切れたと」
「!!」
「注文があった分も、ほとんど反故(ほご)にされていると」
「…………」
生涯、楽器造りをして生きる風露の民は、ほぼ外に出歩かない。
収入源は楽器の売り上げのみで、食料や材料も楽器と交換で入手している。
世の中の人心が荒れて真っ先に不要にされるのが、音楽や芸術等の、腹の膨れぬ物。
それは仕方がない。風露は長い歴史の中で、そういう苦難は幾度か乗り越えて来た。
『だけれど今回は何か違う、言い様もなく不安なのです』
昼間会った関の番人は、すぐれぬ顔色でぼやいていた。
例え波紋の被害に遭わなくとも、不穏な空気はこうやって忍び寄り、ヒトの心を蝕む。
「ねえ、蒼の里から食料を回せませんか? 俺、自分が食べる分が減っても平気ですよ」
少年らしい提案をするユゥジーンに、ナーガは落ち着いた口調で答えた。
「食料は備蓄があるから暫くはやって行けるだろう。ラゥ老師は柔軟な方だから、若い者を山に食料調達にやるかもしれない」
「でも、すぐに冬になります」
「ユゥジーン、窮しているのは風露だけじゃない」
ユゥジーンは口をつぐんだ。
自分が言いたかったのは、そういう事じゃない。
心細い思いをしている奥方の所に、顔のひとつも見せに行ってやれと言いたいのだ。
関の番人に、しばらくナーガ長の訪問が無いのだがと、逆に尋ねられてしまった。
確かに今、私事で動くのは難しいだろう。
でも、こういう時こそ無理をしてでも会いに行ってあげなきゃ、相手は不安が募る一方なんじゃないの?
雨足が強くなった。
二人は黙ってヒタヒタと、ぬかるんだ坂を登った。
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