第11話:医学へパソコン応用と業績表彰と財テク

文字数 1,800文字

 鏑木先生は、スライドを作るのも1つの応用法だと認めた。しかし、本質的には、手術の方法で何が良いかとか、医薬品の優位性を検討するためにデーターベースを利用する方が、将来的に重要だと説明した。この意見に、清水も賛成し、データベースの作成に協力した。そして、同じ形式のデータ・ベースに統一して、データ数を増やしていく重要性を説いた。

 これについて清水も大賛成して、医薬品の売り込みだけではなく、このデータベースの応用法話を多くの先生に啓蒙した。それが、月日が経つと共に、理解され、清水個人と、会社の名前が知られていった。それに連れ、清水の会社の医薬品の売上げも増えていくという、良い循環が、起きた。

 さらに、その他の長野県内担当の3人にも好影響を与えて売上げ増につながった。また、毎年、夏と冬のコンピューター研究会も学会で評判になった。1989年、この努力が、実を結び、清水の担当する長野県の売り上げ伸び率が、ついに全国トップと言う快挙を達成。松本に営業所ができ、清水が、初代の所長になった。

 そして、その年の特別報奨金が、清水個人で300万円で、営業所の合計600万円となった。そして、清水の年収が手当て込みで1000万円を超えた。清水の奥さんは子供を抱えて、専業主婦をしていたが1981年の結婚後、ワリコー、郵便局定額貯金、一時払い養老保険などを駆使して、財テクに励んでいた。

 その結果、1989年には、既に4500万円まで資産を増やした。その後、清水の業績を見て、採用試験の時、面接してくれた以前の社長「現在の会長」が、首都圏で活躍させろと東京支店長に進言し、1990年に千葉営業所の副所長として転勤した。1990年、千葉営業所に移動して営業所員との同行訪問を繰り返し営業方法指導をして回った。

 しかし、千葉営業所では、松本のように地域に根差した営業活動ができていないことを痛感した。そのため千葉大系列の病院でパイプを作るように指示。しかし、医局に深く食い込んでいない大学担当者には、それができずにいた。そこで自分が担当すると言い交代させた。そして以前のように、得意とする外科系の医局の上昇を収集し業績を伸ばしていった。そして、グループ作りを始めて1991年に仲の良い1グループができた。

 1993年には、仲の良いグループを3つに増やし、業績もうなぎのぼりであった。しかし、清水の担当先の業績は、伸びるが、他の人の業績は、なかなか伸びずに困ってしまった。そのうち、関東でも2番目に大きい神奈川県で業績が伸び悩んでいる事が、一番問題にされて、1993年11月、横浜営業所に転勤となった。

 実家の近くの町田の3LDKの15万円の家賃のマンションに入り、清水敦夫、清水百合も一緒に住んだ。そこで同じように大学病院での人脈作りから、始めて1994年に入り、徐々に清水は、自分の名前を売り込んでいった。1995年には大学の医局に2つの仲の良いグループを作ることができた。

 しかし、神奈川県では、地方のように、大学病院からのピラミッド形式の医者の世界ではなく、大型病院がいくつもあって、そこに、大物の先生方がいて、グループを作っていた。つまり、大きな山が7つも8つもある。そのため地方で成功した戦術が、すぐに使える程、単純ではなかった。

 そこで、地道にグループ作りの毎年、実行していった。そして1995年3月、長女の清水百合が町田高校に合格した。1996年までには横浜営業所内で3つの大きな医者のグループを作りった。その後1997年、長男の清水敦夫が町田高校に合格。翌1998年までには5つグループまでに増やした。

 しかし、横浜は、東京のT大、K大、J大などの古くからの名門大学出身者の大型病院が多い。そのため単純に、地元の横浜市大だけに注力しても思った程、業績が伸びないことが判明。そう言う面では、東京と同じか、それ以上に、難しい市場だとわかった。そこで1997年からは、身を粉にして仲間のプロパーとグループを作り、接待した。

 さらに、研究会を立ち上げたり、創意工夫をして業績向上をはかったが、同業他社も、神奈川、横浜の市場性の高さから、優秀な精鋭を集めて営業をしている。そのため、そう簡単に、他社を駆逐するのは、容易ではなかった。そして1998年、長女、百合は、八王子の東京都立大学経済学を受験し合格した。
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