第9話:製薬会社に就職と営業所に配属

文字数 1,807文字

 その後、1週間、事務的な事の研修と所長からプロパー活動の方法の注意点を聞き、プロパーカバンを与えられた。そして、持参すべき学術資料の保管場所、商品PRの方法の研修を受け、担当病院を決められた。その翌週に、所長か課長と同行し、実際のプロパー活動の方法を教えてもらい。ネームプレートを作ってもらった。

 そして3週間目から、単独で訪問することになった。最初は、営業所から30分以内の中小病院と開業医の合計20院を担当させられた。そして単独で訪問し始めた。4月になる頃には、なれてきた。また、月に1回、休日に、勉強会として新しい文献の読み合わせと活用法。または、新製品が発売されれば、その時、学術宣伝部の方からのPR方法と指導される。

 特に、新製品の強調すべきポイントの説明会が実施されPR方法の実演などが行われた。夏を終えて、9月末、この年は、業績が良く、特に清水の派遣された横浜営業所の業績が、全国ベスト3に入り特別ボーナスが支給された。その金額は、新人の清水で50万円であり今まで、考えられない事で驚いた。

 所長が横浜は、激戦地区だが、諸先輩の活躍で、市場の掘り起こしができはじめて現在は好調だと教えられた。その年の冬のボーナスも70万円となりボーナスが、全報酬の半分以上を占めると知らされた。これは、一見、素晴らしい給料体系に見えるが実力主義の給料体系だとを先輩に教えられた。

 また、最近の円高になると、海外の商品や原材料が安く手に入るので、最近は、給料水準が高いと言われた。そして1978年が1979年となった。この年は、やっと担当病院で、先生方に顔を覚えられ仕事にも慣れ始めた。接待の方法が、わからないと言うと、それより先生方の勉強会の手伝いをしろと言われた。

 先輩の地区の外科系の先生の勉強会に手術の参考になる学術16ミリ映画の上映会につき合わされた。その時、差し入れの食事を決めるのは、幹事の先生であった。その先生が、この地区の重鎮であり使用する薬剤の選択権もあると教えてくれた。その後、4月、清水が、担当地区の皮膚科と小児科の合同勉強会を鮫島課長と共に企画し大学の先生を講師に呼んだ。

 そこで、自分の会社での商品の特徴の説明をする時間を10分もらい説明した。その後、鮫島課長に、医薬品の説明方法での良い所と、改善が必要な所を教えてもらった。その後、1979年が、過ぎ、清水は、新人として、良い業績を残した。そこで1980年から営業所の手薄の厚木、湘南地区の大型病院を担当するように命じられた。

 そして大学病院を2年目にして担当させられて自分の得意そうな先生を味方につけ仕事に生かした。半年、1年が過ぎると、その効果が出て業績に反映した。1980年、中心商品の業績伸び率が、全国3位になり、全国表彰を受けて、70万円と報奨金を手にした。この頃、金ができて実家の暮らしむきが良くなりクラウンを購入。

 そして時間があるときには、両親とドライブに出かけるようになった。この頃には、弟たちも家を出て、それぞれの職業につき寮に入った。その頃、病院で知り合った事務の女性、池内鞠子と、つきあい始めた。1981年4月、結婚して、家を出て、町田駅から近い2DKマンションを8万円で借りた。この年の12月、長男の清水敦夫が誕生した。

 その後、大型病院を担当するようになり業績を上げて、給料と営業手当など諸手当を含めて、年収500万円を超えた。1983年8月、長女、清水百合が誕生して、順風満帆という感じで、仕事をこなした。しかし、12月に、営業所長から転勤の話が本社からあって、転勤予定地が、札幌か新潟と告げられた。

 後日、営業所長に、お願いして所長の奥さんの出身地、新潟にしてもらい、1984年4月に小さい子2人をつれて新潟に赴任。そして業績をかわれて新潟の山間部の開拓を命じられた。月曜日に新潟営業所に出勤し、その週の訪問の予定を課長と話し合いで決める。家族が住む貸家は、営業所から車で15分の海岸沿いの一軒家となった。

月曜日は、営業活動を終え、家に帰って、火曜から長岡、小千谷、十日町、六日町へ3泊4日の出張か、または、月曜日に直接、長岡方面に向い、3泊4日で木曜日に帰ってくる長期出張の日々が続いた。しかし、今まで、苦戦して地域の売上げが良くなってきて、この年は、売上げ伸び率の部門で全国3位と業績表彰をもらった。
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