第8話:製薬会社に転職と研修開始

文字数 1,741文字

「すると、さすが、会社に入り、もまれただけの事はあると言い、大笑いした」
「面白い、実に面白い、今時の若者にしては、しっかりしている」
「もし売上げが、悪くて給料が少なくなったらどうすると質問された」
「これに対し、稼げなければ、給料が少なくても、当たり前ですと真顔で答えた」

「すると、今度は、手をたたいて、たいした自信だねと言った」
「いいえ、全く自信なんてありません」
「ただ、やるだけですよ、全身全霊をかけて、稼ぐだけですよと伝えた」
「それでこそプロだと言い、会社に入っても絶対忘れて欲しくないと言った」
「そして我が社では、売上げ競争で勝利した者には、特別報奨金が出ると語った」

「そりゃ、ありがたいと、清水が笑った」
「期待してるぞ、我が社で稼ぎまくって欲しいねと言った」
「それでこそ、君に推薦状を書いてくれた工場長への恩返しになるよ」
「最後に、くれぐれも、素晴らしい、その工場長に間違いなく預かりますと伝えておいて欲しいと言われ、面接を終え、挨拶し部屋を出た」

 帰りに実家に帰って、この話をすると喜んでくれた。翌朝、北関東の工場に昼頃、到着し、社長の話を工場長に伝えた。そして、翌週、1977年6月26日、合格通知が届き2週間後、関西の本社に出社するようにと通知が、送付された。今までお世話になった、会社の方々に挨拶して回った。

 その後、以前、引っ越しを手伝ってくれた人と発送課の人と一緒に、実家へ引っ越し、お礼を言って、退社した。そして関西の本社に、指定された日に出社し、本社を見学して周り、車で2時間の工場へ向かった。その後、2時間の工場見学をして、本社近くのホテルに入った。翌日、プロパーとして採用された10人が総務の人から今後のスケジュールを聞いた。

 それによると1977年10月3日からプロパーになるため約3ヶ月の医薬品の教育研修を、会社の保養所までマイクロバスで3時間半かけて移動した。研修所では、所長とパートの女性3人を紹介してもらった。翌日、教師役の営業課長が来て、研修に日程表と1日のスケジュールと注意事項などを話した。

 研修時の試験でのカンニングは即刻クビ。また、研修の勉強後の試験で、続けて2回60点以下の場合は、研修中止で退所。60点以下の場合、自習後、再試験で、落ちると退所。酒、たばこは、禁止で、それを破ると退所。

 朝、7時起床、座禅30分、その後、勉強。昼食後、14時から30分、長距離走、夕食後、風呂に入り23時消灯。トイレ、風呂掃除は、2人交代制で行うことと決められた。毎回の食事は、お手伝いのパートのおばさんが、作ってくれ、珈琲、紅茶、お茶は、自分で自由に飲んで良い事になっていた。日曜日は、基本的に自由。

 しかし、町に出るのは禁止で、欲しい物があれば、所長に、言い、認めてもらえれば、パートのおばちゃんが買ってきてくれるようになっていた。ただし、体調が悪くなったら、すぐに申し出て、所長の車で、近くの診療所に連れて行くことになっていた。そして、研修の終了は12月24日と決められ、翌日から研修が始まった。

 朝食後、座禅となり、足がしびれるものが続出。座禅の時間は、30分の予定が、できず15分となり20分となった。10月の試験と研修で、早くも3人が脱落した。1人は、カンニングでクビになった。その他の2人は、試験の点数が足りず、退所し、内勤業務に、回されるようだった。

 その後、11月は、問題なく、12月を迎え1人が熱を出した。その後、インフルエンザが疑われ、隔離され、腎臓も検査が必要とされた。しかし、数日で復帰して、運動禁止となったが研修を継続した。12月になり2人が、営業職を辞退したいと言う申し出があり退所した。最終的に、4人が脱落し6人が営業職として、働くことになった。

 12月24日、早朝、研修所の所長とおばさん達にお礼を言い本社に帰った。その晩、クリスマスパーティを兼ねた、解散式がホテルのパーティー会場で行われた。そして、最初は、自分の住む所から一番近い営業所に配属されることが決まった。清水は、横浜営業所となった。そうして1977年が終わり、1978年を迎えた。1月8日、横浜駅から徒歩7分の横浜営業所に出勤し営業所員に挨拶した。
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