第4話:高専卒業と就職難と転職

文字数 1,770文字

 やがて、年が明け、1973年卒業の年となり、続々と卒業論文が受理されていった。しかし、最後の方は、仕方ないから、受理しようと言う、教授会の温情に助けられて、卒業できた人も2割いた。ところが、5年間にわたり、同じメンバーと同じクラスで過ごすと言うのは、意外にストレスがたまるものであった。

 それに授業もレベルが高くついていけない学生も出て、高専3年までに3割の学生が脱落して退学した。最終的に化学科を卒業できたのは全体の60%程度だった。清水は、その後、大手化学メーカーの研究所を志願して、最初の面接、ペーパーテスト、最後の面接の3つのテストを受けて合格を勝ち取った。

 これには、両親も大喜びしてくれた。その後、働き出すと毎月、一定金額を育英会に返金し始めた。しかし、実験助手の生活になじめず1年足らずで退職。ちょうど、この頃、オイルショックで、再就職先を探すのにも一苦労した。それでも自宅からバスで40分程の場所にある工場の従業員募集のチラシを見つけた。

 そこは、日本最大手印刷会社用の特殊インクを製造している会社の工場で、大学生5人と高専生5人の募集に応募した。不景気な時期だったので募集は、少なく、すぐ、飛びついた。予想通り高専生の募集5人に対して23人もの応募があり、採用試験を受験し、清水は、何とか、合格できた。

 ところが、インクの検査事業の仕事だと、知らせてていたが、研修と称して、毎日、特殊インクの製造をさせられた。毎日、フォークリフトを運転し、原料の顔料や化学薬品、特殊油を大型ローラーの混合装置の前に運び固化しないように慎重に入れる。指示通り、約8時間かけ特殊インクを製造した。

 つまり研究職でなく製造部に配属された。それも1日2回の製造が基本で、製造に16時間。実際には、運搬、食事、休憩を入れると、朝8時から0時の労働か、それ以上の長時間労働の勤務。16時間労働、8時間の残業で25日、月平均200時間の残業。そのために入社、早々、工場近くの社宅の1室を与えられた。

 給料は、予定の給与の2倍以上で、使う時間がなく、お金は貯まった。しかし、すぐに労働条件が違うと、退社する者が2名、体力のありそうな3名も4ヶ月後、6ヶ月後に退職。最後に残ったのが清水だった。しかし、会社の定期健康診断の時、検査の結果、血尿が出て、1ヶ月の入院を命じられ、入院後、退社した。

 後で、わかった事だが、予定していた大阪の工場設立が、オイルショックの影響で、駄目になったようだった。その後、半年間、医者に自宅療養を命じられ、もちろん、その間、給料もボーナスをもらい、自宅待機し、毎日、新聞の従業員募集の欄を見る日々が続いた。約半年後、北関東の化学薬品メーカーで1名の募集が出ていた。

 社宅完備という条件で、それに応募するとすぐ連絡が入った。その会社から電話入り住まいを聞かれ夕方15時以降で結構ですので直接工場へ来て欲しいと言われた。そこで、電車を数回乗り継ぎ北関東の駅に着き工場に電話すると駅まで迎えに来てくれた。自宅から3時間弱かかる風光明媚な田舎だった。

 迎えに来た人は、茨城弁で運送の仕事をしていると話していた。駅から25分かけて、その会社の工場に到着。開口一番、工場長が出て来て、遠路はるばる、ご苦労さんと言われた。清水が、他に、受験者は、いないのですかと思わず聞くと、2人いたが辞退され、君一人だと言った。それを聞き驚き、試験はと聞くと、面接だけだと行った。

 すると工場長室に宿舎を案内すると言われ、敷地内にある長屋の社宅に案内された。その後、成績表のコピーを渡すと良い成績ですね。なぜ、我が社にと聞かれ、新聞記事を見てと答えた。工場長が、世の中、不景気ですからねと言い、仕事内容について話し始めた。我が社は、鋳造品に使う特殊化学商品の製造メーカー。

 ライバルは、日本に1社、ヨーロッパの企業1社の世界で2社だけだと言った。そこで、新商品を最低1つ、出来たら2つ、開発したい。その研究開発をしてもらう技術者が欲しいと話した。工場長も日本大学工業化学出身。現在、工場とは、名ばかりで、製造商品の品質管理を毎日、燃焼試験と保温時間など毎ロット、データをとっていると話していた。何度位になるのですかと聞くと摂氏1600℃前後だと言った。
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