第1話:自分の生い立ちと中学の思い出

文字数 1,761文字

 清水薫。薫と言う名だが、男の子。北関東の貧農の家に1952年7月12日に生まれた。その後、両親が北関東の田舎では、まともに食べていけたいと思い、私が2歳の時、職を探すため上京した。そして東京の郊外、町田市成瀬の農家の納屋を借り6畳の畳を入れ改造し、布団2組を買って、家族3人で新生活を始めた。

 その頃、栄養状態が悪く、痩せていて、丈夫でなかった。そして、幼稚園に入った後、その当時で流行していた結核にかかり6人が、近くの大きな病院へ入院した。友人達は、1週間以内に2人、2週間以内に2人と次々に退院し、もう1人も3週間で退院。清水薫だけが、独りぼっちで隔離病棟で長期入院生活を送ることとなった。

 幼稚園の友達の親から差入れの絵本を数冊もらい、退屈凌ぎに、じっと見ていたが、寂しさがこみ上げた。たまに、母が見舞いに来てくれるのが、唯一の楽しみ。そして、母の温かい手の思い出が、今でも、思い出される。結局、入院が長引き、3ケ月目には、病状が悪化して一次、生死の境をさまよった。

 そして、病魔と自分の生きたいと言う、強い願いとの病との戦いに勝利し、病魔に打ち勝ち、1年後、退院した。やがて、友人達が、みな小学校に入る年になった時、何とか一緒に入学した。しかし、まだ病弱で病院に通院していて、かなり学校を休んだ。しかし、学校からの手紙やノートを見せてくれる優しい友達が、いたため同級生についていった。

 小学校3年生になる頃、体育の時は、見学だった。しかし、それ以外、全く同じ様に勉強できた。それでも海軍上がりの父は、横浜、桜木町の日本石油の関連の回槽店にボーナスなしのアルバイトのような形で働いた。自分達で、食べられる野草、せり、きのこ、タケノコ、タラの芽を取り近くの農家の人達が可哀想に思い米、野菜を与えてくれた。

 そうして何とか食いつないだ。その後、小学校5年の時、町田駅から近いに1960年に、町田駅近くの都営M団地ができ抽選で、当選しに引っ越した。その時、小さい時から、優しくしてくれた近所の人達、学校の仲間との別れが、とても悲しかった。引っ越してみると境川が近く、2DK、鉄筋コンクリート5階建ての2階、3DKに入居した。

 この団地は、1棟の40室の鉄筋マンションが、数多く整然と並んでいた。団地でも新しい畳の匂いが、気持ち良かった事に感激したことを思い出す。エレベーターのない団地の2階に入居した。我が家は、私には2歳と4歳下の弟がいて家族5人だった。そのために小学校高学年になってくるとやはり部屋が狭い。

 母は、一番下の子が、手がかからなくなった頃から火災保険の集金とセールスの仕事を歩合制で始めた。それにより、少しずつ物が増え、白黒テレビを買ってもらった時、感激したのを今でも鮮明に覚えている。小学校6年の頃は、すっかり元気になり、太っていたのでマラソンを始めて減量をはかった。

 すると中学に入る頃には痩せた。中学に入学すると急に勉強が難しくなり一生懸命、勉強しないと授業について行けなくなった。そのため仕方なく勉強したが、よく考えてみると、貧乏から脱するためには、優れた頭脳が必要だとわかると、必死に勉強するようになった。勉強に疲れるとトランジスタラジオから流れてくる、

 アメリカン。ポップス、ビートルズ、黒人音楽を聞くと息抜きになり勉強に集中できた。その洋楽を聴き英語に興味を持った。「米軍基地放送」FENの放送も興味深く聞いたものだ。中学1年でクラス40人中10番位の成績で公立高校に入るため勉強し理科と英語、数学が好きだった。団地の近くに住む母の友人の娘さんが横浜国立大学に合格したと喜んで話した。

 それを聞いた母が、是非、息子に勉強を教えてとお願いした。月千円で週1回、1時間、その娘さんの家で教えてもらえる事になった。ちなみに1963年当時の団地の家賃が月5千。もちろん収入によって家賃は差があり一番安い家賃だった気がする。

 大学生のお姉さんに教えてもらい始めると、先生が、勉強の基本は、考える事と感じる事よと言った。そこで、まず本を読みなさいと言われた。ドストエフスキーの罪と罰、トルスト地のアンナ・カレーニナ、ツルゲーネフの父と子、ショーロホフ、静かなるドンと、次々に渡され、読むように言われた。
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