第27話:薫子の横浜観光2

文字数 1,680文字

 かつて3つの寝室があった2階は写真や図面で山手の洋館に関する資料を展示。昔の厨房部分は、喫茶室。地下ホールは貸し出しスペースとして使用。また、昔の厨房部分は、喫茶コーナーとして誰でも、入れ、人気がある。ベーリックホールは、イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベリックの邸宅として1930年に建設された。

設計は、アメリカ出身の建築家J・H・モーガンで、大正9年、東京丸ビル建設のため、フラー社の設計技師長として来日。後に独立して事務所を開き、旧根岸競馬場1等馬見所や山手111番館と並び、彼の住宅建築の代表作の一つ。ベリックの没後はカトリック・マリア会に寄贈された。

 カトリック・マリア会の運営する、ここの近所にあったセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。「ベーリック・ホール」の名称は、マリア会の命名によるものである。2000年にセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールが閉校後は、横浜市が敷地を取得し建物も市に寄贈された。

 元町公園の一部として整備が行われ2002年から一般公開された。その道をさらに進むと、フェリス女学院という、古くからの名門女子校の校舎が建ってる。フェリス女学院は、1870年「明治3年」、アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で、女子を対象に英語の授業を開始。

「これが女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院の発祥とされる」
「のちに男子部は明治学院となった」
1875年「明治8年」、アメリカ改革派教会外国伝道局総主事であったフェリス父子の支援により横浜・山手178番に校舎・寄宿舎が落成「フェリス・セミナリー」と名づけられフェリス女学院中学校・高等学校になった。

 その後1947年「昭和22年」に「旧制」専門学校を設置し、これを1950年「昭和25年」にフェリス女学院短期大学に改組、1965年「昭和40年」に4年制の女子大学が誕生。フェリス女学院のモットーは、「フォー・アザース『他者のために』」という意味。

 新約聖書のフィリピの信徒への手紙中、「ドゥー ノット マーリー ルック アウト フォー ユア オウン パーソナルインタレスツ バット オルソ フォー ザ インタレスツ オブ アザース」に由来。フェリス女学院は、キリスト教の信仰に基づく女子教育を行うことを建学の精神としている。

 フェリス女学院は「フォー アザース」という教育理念を掲げてる。これは、建学以来の永い歴史の中で自然に人々の心の中で形をなし学院のモットーとして受け継がれる様になった。この言葉は「他者のために」と訳せる。自分や近しい人だけではなく、より広い視野から他者の存在をも考えに入れて、他者のために行動する事を、本学で学ぶ一人一人が受け継いでいる。

 フェリス女学院大学は明治の文明開化以来の横浜の「伝統と革新」の文化の中で、キリスト教精神に基づいた日本最初の女子教育機関として生まれ学則第1条にも、「キリスト教を教育の基本方針となし学問研究及び教育の機関として、女子に高度の教育を授け、専門の学問を教授研究し、もって真理と平和を愛し人類の福祉に寄与する人物を養成する事を目的とする」と明記されていて優秀な学生を輩出し続けている。

 何しろ、かつて、海外の情報は、全て横浜港から入った。また日本で貧しい暮らしをして国の政策で、満州、中国、ハワイ、北米大陸、ブラジル、南米で多くの移民船で、多数の日本人が日本を後にして、かなりの人が夢かなわず、戦争に巻き込まれて、帰らぬ人となった。詳細は、国際協力機構横浜国際センターへ行くとわかる。この話を清水が静かに語った。

 その数日後、YCAC「横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ」を遠くから見たり山手公園内にある横浜山手・テニス発祥祈念館を見学。YCACの日本人メンバーは、極、限られた人達だけで教会の牧師であるとかキリスト教系の大学の学長。一部、病院の院長程度だけと話した。それを聞いた薫子は、横浜って、すごい所なのねと改めて驚いていた。
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