第12話:清水が激務で体を壊し退社

文字数 1,842文字

 それでも地道な努力の成果は現れ、1998年、横浜営業所が、全国で成長率トップになった。しかし、清水の努力が、関東の他の営業所の所長会で敬遠され始めた。つまり孤独な指揮官になった。これに負けまいと早朝から夜遅くまで訪問したり営業会議で、営業所員に叱咤激励を繰り返しても動いてくれない。

 さらに悪い事に、各営業所の所長を敵に回し、スタンドプレーしている言われた。加えて交際費の使い過ぎじゃないかと支店会議で公然と言われるようになった。1999年、夏、遂に孤立無援となった。その後、東京支店の部下なし営業部長に命じられ単なる応援団長にさせられた。それでも構わず先生方とのパイプ作りを基礎にした業績向上を続けた。

 2000年を迎えると過労が、たたり入院。同じ頃、長男の清水敦夫が、横浜国大経済学部を卒業し横浜銀行に入社。清水敦夫が、仕事で遅いから会社の社員寮に入った。清水薫は、重度の自律神経失調症だと心療内科と耳鼻科の先生に宣告され、休養を命じられた。それでも会社に出勤していると、突然、目が回り、会議室で倒れた。

 そのため車の運転とストレスは、駄目と言われて、3ケ月の自宅療養を余儀なくされた。その後も、東京の部下なし部長となり、部下との同行訪問をしたりして勤めていた。しかし、めまいが治らず、病欠の日が増え、2001年を迎えた。この年も内勤で、営業さんの悩みや相談事に乗る仕事を続けた。

 体調のすぐれない日は、休む様にして、出勤。4月、長男の敦夫から電話で今年6月5日、同じ会社の姫野聡子さんと結婚すると連絡してきた。これを聞き、両親は、喜んだ。6月5日、品川のPホテルでの盛大な結婚式。結婚式場で大勢の参加者の結婚式に清水の両親も出席。両親は、新郎の敦夫と新婦の聡子さんの晴れ姿を見て喜んだ。

 その後も体に気遣いながら清水薫は、会社勤めをつづけていた。ちょうど、この頃、日本は、不景気に見舞われ、会社でも早期退職で退職金割増制度が始まった。2001年11月のある日、清水薫の状態を見て、あまり無理すると、死んじゃうよと、奥さんの鞠子さんが、言い泣き出し、それを見て清水は退職を決意。

 2001年10月、長女の百合が、SBI証券から内定通知が届いた。2002年が明けた1月6日、出勤すると源田人事部長に退職の話をするとわかった、確かに、めまいをお越しながら働くのは、見るに忍びないと言った。そして病気休暇制度と君の有給休暇を最大限つけてやるから後は任せろと言ってくれた。

 彼は、以前、東京で一緒に働いた先輩プロパーである。数日後、源田人事部長の部屋に呼ばれ、まだ公表されてないが、今年、早期退職優遇制度が開始されると詳細を教えてくれた。それは、60歳定年の人が、50歳で退職すると退職金が2倍になる制度。9年の早期退職で1.9倍になると打ち明けた。

 これを知った清水の奥さんは、まさに、渡りに船だわと、大喜びした。そして退職願を提出し受理された。通常3000万円の退職金が6000万円となった。その後、月15万円の横浜市の北部に借家を借りた。これで清水の資産は、約1億円。しかし退職しても病人を抱え、奥さん働く事もできずにいた。

 清水薫は、内科と耳鼻科を受診し、退職しても、なかなか調子が戻らず、集中力が30分で切れ眠たくなる。2002年3月に長女の清水百合が、東京都立大学経済学部を卒業。SBI証券に入社し、東京の本社に勤め始め遅くなるからと言い、会社の近くの1Kのマンションを借りた。

 清水薫は、就職できないなら投資しかないとM証券に行き口座を開いて、アドバイスしてもらった。現状を証券会社の担当者にも事情を打ち明けていたので親身になって相談に乗ってくれ安全性の高いリートを奨めてくれた。すると、リート「日本ビルファンド投資法人」を奨められた。清水薫は、4月、暖かくなった頃から昼前に散歩して汗をかくようにした。

 2002年6月27日、M証券の担当者から朝8時に電話が入り日本ビルファンド投資法人の気配値が52万円の安いので買いと言われ20株、成り行き買い指示し1040万円で購入。これで資産残金が9千万円となった。年間約40万円の配当が魅力であった。

 10月、清水は、体の具合が良い時、公営のスポーツジムに通い運動し始めた。その後、横浜の北部の天然温泉に入って体調の回復をはかった。そうして寒い時期に、しかし、毎月、25万円ずつかかり年間約300万円減っていくのは、実に切ない。
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