第35話 推論、到達、最悪の答え
文字数 3,817文字
が、すぐさま思い直す。
この男は、死体すら足蹴にするイカれた奴だった。
『前借り』を使い、身体は元気一杯。
なのに、
――どうする? どうする? と、視線が逃げることを前提にあちこち飛ぶ。
そうやって、窓ガラスを見つけた。
深く考えもしないで、翼は飛び込み――目前の大木にしがみ付く。そこまでして、早くあの場から逃げたかった。
落ちたと思ってか、男は追ってこなかった。
「はぁはぁ……なんなんだあれは?」
鼓動が収まらない。
うるさく、自己主張を続ける――怖い、怖い、怖い。
「くっそ!」
気を紛らわせようと携帯に手を伸ばすと、失くなっていた。イヤホンも同じく、下に落ちてしまったようだ。
「どうする? ……どうする?」
言う通りに初葉が逃げてくれればいいが、そうでなかったら……あの男とぶつかる。
それだけは避けなければならないと、翼は四階の高さまで木を上って、室内を覗きこむ。
すると、あの男が跪いていた。
あの位置には確か、女がいた。おそらく、茅野由宇。
だとすれば、あの男が……近江悠?
「まさか……あいつが? おぃおぃおぃマジかよ?」
容姿は真面目そのもの。
黒い短い髪、肉体が華奢なのは、まだ成長途上だから?
思い返す。あの室内に転がっていた男たちの特徴……みんな、色の付いた髪だった。
もし、あの男が近江悠だとすると、どういう状況だ?
翼の推測では、彼の役目は人質か引き金――あの惨劇を引き起こす者がいるとすれば、それは初葉だ。
「……そうか。そういうことかっ!」
あり得ないことが起っているということは、答えは簡単。
「――あいつ、目覚めやがったなっ」
つまり、『朧』の計画が狂っているのだ。
誰も想定していなかった、アッシャーの登場によって――
「そうなるとヤバいな」
よくよく考えてみると、初葉と悠が入れ替わっているだけで、『朧』の計画通りに事が進んでいる。
そう、翼の読みは僅かに外れていたのだ。
Hを暴走させて、初葉の記憶を失わせるのが目的だったんじゃない。
――我を失った初葉に人を殺させるのが目的だったんだ。
罪を犯した人間ほど、洗脳しやすい者はいない。
特に『朧』は警察だ。一般人からすれば、一番正義に近い存在。それが赦しを与えてやれば、未熟な子供を操ることなんて造作もない。
だからもう――近江悠は救えない。
少なくとも、ASHでは彼を救ってやることはかなわなかった。
だけど、初葉はまだ間に合う。
近江悠が身代わりになったおかげで、彼女には救いの道が残っている。
「おまえのことはよく知らないけど……男なら、それでいいよな?」
翼は決めた。
悠を見捨て、初葉を救うことを――
悠が出ていくのを見計らって、翼は窓から室内に侵入する。
まず、転がっている男たちの安否を確認――全員、死んでいた。
どいつもこいつも、後頭部を壁か床に叩きつけられている。まだ貧弱な子供だから、そうしないと殺せなかったのだろう。
こんな酷い場所で、茅野由宇は眠っていた。
きっと、正常な眠りではない。麻酔かなにかを使われている。ストッキングこそ破られているが、他に目立った形跡は見当たらない。
なので、翼はストッキングを脱がすことにした。そのほうが犯罪臭がしないだろうと。
この惨状は『朧』がなんとかする。
脅しの為に写真でも撮るべきかと考えるも、止めた。
携帯は下に落ちているし、こんな写真を保存したくもない。
これをなかったことにしたいのは、翼も一緒だった。
翼が由宇を背負って部屋から出ると、
「約束、守らなかったな」
廊下で初葉が立ち竦んでいた。
「……無事、だったんだ。由宇も……」
「あぁ、言ったろ? 俺にもHがあんだよ」
足で扉を閉めながら、初葉の視線上に翼は立つ。
あれを見せる訳にはいかなかった。
――近江悠が犯した罪。
――もしくは、初葉が犯していたかもしれない罪。
「とりあえず、このコを病院なり連れて行かないとな」
「……近江は?」
「会ったんだろ?」
返事はないが、頷いた。
初葉の声も想いも、届かなかったのだろう。
「悪いな、俺も約束を守れなかった」
「……んで、そんなこと言うの?」
傷ついたように、初葉が漏らす。
「正義の味方だって言ったじゃん。絶対に、助けてくれるって……!」
調子に乗って、安請け合いしたことを翼は後悔する。
「俺は羽田翼。正義の味方に憧れている、ただの高校生だ」
「――知らないっ! あなたの名前なんて知りたくないっ!」
泣きながら、初葉は首を振る。
「最初から、私が力を使っていれば良かった。そうすれば……」
「いや、それは無理だ。嬢ちゃんが、どんだけ強くたってな」
子供では、強かな大人に敵わない。
そのことを、翼は思い知らされた。
公安はなんでもすると聞かされていたが、ここまでとは思ってもいなかった。
「あなたは知らないからっ! 私の力を知らないからっ!」
「――じゃぁ、試してみろよ?」
翼はそっと、由宇を壁にもたれさせる。
「俺を倒してみろよ、本気でな」
両手を広げ、翼は立ち塞がる。
「強いんだろ? だったら、俺ぐらい倒せるよな?」
沈黙の中、バイクのエンジン音が外から聞こえてくる。
どうやら、凛の到着のようだ。
「……馬鹿に、してるの?」
やはり我の強い女だと、翼は内心で笑う。
「あなたにも、異能力があるんだろうけど――」
「いや、そんなものはない」
「えっ?」
「俺にあるのはH《アッシュ》だけだ。俺のは、能力なんていう大層な代物じゃないからな」
今回のことで、また思い知った。
「こんなのは、Hで充分だ」
「だったら、どいて。私には能力と呼べる力があるんだから!」
苛立ちを隠そうともせず、初葉が正面から見据えてくる。
「そうか……。なら、勝負だな。俺が勝ったら、近江悠は諦めてもらうぞ」
「なら、私が勝ったら……近江のこと助けてくれる?」
初葉はまだ、そんなことを言ってくれる。
本当に翼のことを信じていたようだ。
「あぁ、そん時は手を貸してやるよ」
でも、そんな健気な想いを今から裏切らなければならない。
「――来いよ」
言った傍から、初葉は突っ込んできた。構えもなにもない素人の動きだが、翼は目で追うこともできず、廊下を派手に転がる。
「……んな、もんか?」
強烈な掌底だが、翼は起き上がる。
痛みも苦しみも吐き気さえも、『前借り』でなくした。
「……嘘?」
信じられないのか、初葉が自分の手を眺めている。
「おしまいか?」
涙をふるって。初葉がまだ馳せる。
今度は蹴り。翼は両腕でガードするも、ふき飛ばされて壁に叩きつけられる。が、何事もなかったかのように立ち上がる。
「……痛いな。けど、それだけだ」
本当に、初葉はHの力のみで戦っていた。
すなわち、ASHの神に相応しい振る舞いだ。
ただそれのみで、個人の努力や経験を覆す圧倒的な力――それこそが、ASHの神の資格であった。
だから、凛や翼では務まらない。努力や鍛錬があっての力では、神の奇跡と呼べやしない。
「なんで? ……んでっ!」
辛いのか、初葉の息は荒くなっていた。彼女の認識が間違いでなければ、記憶を失う前に極度の疲労と眠気が訪れるはず。
「言ったろ? 嬢ちゃんがどんだけ強くたって、無駄だってよ」
殺す気はおろか、致命傷すら与える気がないのでは翼が勝つのは当然だった。
そう、わかっていた。
初葉は優しいと。ちゃんと、手加減してくれるとわかっていて翼は勝負を吹っかけた。
始めから彼女の優しさに付け込む気で……あんな約束をさせた。
「そんなことないもんっ!」
見事な跳躍。初葉は壁を蹴り、天井に足を付け――加速。翼の腹部に両掌を突き立てた。
「……いい加減、わかれよっ!」
翼は両手を広げて、あえて攻撃を受けた。同時に彼女を抱きしめたので、二人揃って床に転がる。
「……かんないっ! わかんないもんっ!」
腕の中で初葉が駄々をこねる。精神的な疲れもあってか、もう限界なのだろう。力はか弱い少女のモノだった。
「……は、強いもんっ! 初葉は強いもんっ! 初葉なら絶対に負ける訳が……ない、もん」
「あぁ、そうですか」
適当にあしらいながら、翼は彼女の頭を撫でる。
「……そう、初葉なら……絶対に、負け、ない……もんっ」
そう言って、初葉は眠りに落ちた。
「つ、はお……ねぇちゃん」
知っていたから良かったものの、知らなければ病気を疑うほど早い眠り。
「はぁ……俺も早く帰って寝たい」
経験則で、翼は悟っていた。
明日以降、確実に一カ月は動けないと。
「本当、俺って馬鹿だよなぁ……」