第20話 親のいない子供たち
文字数 2,802文字
それができるのも、年少組がいないおかげだ。
仕事と呼べるのは定時連絡と報告書の作成のみ。それと朝食の支度くらいである。
昼と夜は、初葉と由宇が好んで台所に立ってくれていた。
今日も彼女たちの作った夕食を食べ、彼方は数少ない仕事に取り掛かる。
「ふぅ……」
一時帰宅している最後の一人との電話が終り、彼方は胸を撫で下ろす。
今のところ、大きな問題は起きていなかった。
このまま上手くいくことを願うも、そう簡単にはいかないのが現実。
事実、茅野由宇は何度か卒業の機会に恵まれたものの、結局はここに戻ってきた。
数週間ならまだしも、一カ月を超えると機嫌の悪い日がどうしたって出てくる。
そこで、選択を間違える親が非情に多かった。
この家の中で由宇は一番の問題で、彼方の担当外でもあったので彼女の母親と深く話し合ったことはない。
書類を見る限り、子供を嫌っているわけでもないようだが……。
証するように、自分でやっておきながらも命の危険があると救急車を呼んでいる。
ただ、その回数が四回。
内の一回は施設側の判断ミスともいえるので、上も酷く慎重になっていた。
中途採用の彼方はまだ四年しか勤務しておらず、施設においては新人扱い。
このグループホームに来る前も専ら身寄りのない子供が担当で、家族に問題を抱えたケースは担当してこなかった。
「どうしたものやら……」
一八歳になれば、子供たちは施設を卒業する。
高校に行かなければもっと早い。一応、二〇歳まで措置延長が可能とされてはいるものの、収容人数を考慮すると現実的ではなかった。
どうしたって、悠と初葉が先にいなくなる。由宇を残して、二人は自立しなければならない。
高校と違ってその後の進学率は非常に低く、よほどの能力がなければ諦めるしかないからだ。腐っても身内がいる場合はその限りではないが、二人には身寄りが一切ない。
共に、不幸な事故で亡くしている。
その結果、悠は車を恐れるようになり、初葉は記憶を失っていた。
「はぁぁぁぁ~」
年長組の自立を助けるのが彼方の大きな仕事であり、今後に繋がる評価点なのだが、これが非常に難しかった。
なんせ、上司である鬼婆すら半ば諦めている難題である。
悠は車の免許が取れないどころか、助手席に乗ることすらできやしない。
初葉は重度の記憶障害を患っており、戸籍すらあやふやな面がある。
社会的ハンデの観点からすれば、担当外とされている由宇のほうがマシなレベル。
また、一方には得体の知れない宗教に狙われている危険性もあった。
下手をすれば、そこに公安も加わる。共に身内がいないことが、プラスに働く稀有なところではあるが……。
「駄目だな」
いくら考えたって埒があかない。結局は本人の意思を尊重する、という杓子定規的な答えしか出せそうになかった。
本人以外の問題のほうが多いのに――
考えを一旦閉まってから、彼方はまた女の居所を確かめる。
丁寧に息を整え、目を閉じ、全ての五感を麻痺させていくイメージ。聴覚、嗅覚と一つ一つ鈍感に。
そうすると、最後に彼方だけに備わっている『感覚器』なるものが、同類を捉える。
「……近づいている」
速度からして車かそれに匹敵するもの。
徐々に、確実に近づいてきている。
まさか、ここが目的地ではあるまいと危惧していると――爆音。集中していられないほどの騒音が耳に飛び込んできた。
バイクのエンジン音だ。
意識して聴覚を遮断していたので、今まで気付かなかった。
――暴走族? いや、走り屋か? どちらにせよ、今どき珍しい。
赤い髪をしていたのはそういうわけだったのかと、女が遠ざかっていくのを彼方はしかと確かめた。
次第に五感が正常に戻り、やけに騒がしいことに気付く。
それも、はしゃいでいるのではない。
年長組しかいないこの状況でいったいなにがあったのかと、彼方は現場へと駆け走る。
扉を開けた段階で、由宇の悲痛な声は届いていた。
なのに、悠や初葉の声は聞こえてこない。
――まさか!?
状況を察するに最悪な展開。
今すぐ追いかけに行きたいがこちらを放っておくこともできず、彼方は目的の部屋に踏み入れる。
「大丈夫かっ、ハルカ!?」
想像通り、問題があったのは悠だった。
ヘッドホンをしたまま、床で胎児のように蹲っている。漏れ出ている音からして、まともな神経では聞いていられないほどの大音量。
それでも足りないのか、悠は両手でヘッドホンを強く押さえ込んでいた。
「おにいちゃんっ! ねぇっ! おにいちゃんっ!」
その傍で由宇が必死に声をかけ、さすっているものの届いていない様子。
彼方はヘッドホンを外そうと試みるも、力任せでは無理そうだった。
だから冷静に、衣服棚から丸めた靴下を二つ。同様に取り出したタオルをきつく巻いて、悠の脇の下に押し込む。
脇が開けば腕の力は弱まり、肩に入る。あとは左から順に、肘を押し上げるように動かして手を離させる。
「ハルカっ! ハルカッ!」
ヘッドホンを外すなり、悠は自分の両手で耳を塞いだ。
未だ、こちらの呼び声に反応はない。
呼吸も荒く、脈拍も乱れている。
そして不可解にも、目を閉じて歯を強く食いしばっていた。
――発作? どうして、今頃?
ずっと幼い頃を除けは、悠の発作は車に乗らない限り問題がないはず。原因は疑いようもなく、先ほどの暴走車両だろうが……。
音量の問題なのか、それとも――
悠の両親は交通事故で亡くなっていると聞いているが、もしかすると少し違うのかもしれない。
とにかく、車に乗った際の発作と考えれば悠は安静にしておけばいい。ただ、嘔吐の可能性を考慮すると一人にはしておけなかった。
「おにいちゃんっ! おにいちゃんっ!」
かといって、由宇では心もとない。
年少組なら任せられても、悠が相手となるとてんで駄目なようだ。幼い頃からべったりだったからか、悠の前では幼い子供のままだ。
そうなると、彼方はここから動けない。
――あの馬鹿がっ!
心の中で彼方は吐き捨てる。
――よりによって、こんな時に……!
あの女に出会わないことを願うも、それが無理だと彼方にはわかっていた。
おそらく、初葉は先ほどの暴走車両を追いかけていったから。
――くそっ!
確実に近づいていく二つの反応に、彼方は携帯電話へと手を伸ばした。