第33話 殺意に目覚めた少年
文字数 1,699文字
――いまの声……?
まさか、と否定しきる前に今度は泣き声――今度は間違いない。
「……近江?」
健気に従っていた足が、階段を踏みしめる。
駄目だとわかっていても、一歩、また一歩と動いてしまう。
四階に辿り着くと同時に、重たい荷物を放り投げたような音がした。
反射的に目を向けると、開いた扉。その途中に、不良っぽい恰好をした男の人が座り込んでいる。
扉の中を気にしているのか、こちらに背中を向けたまま。
ど
うしようかと悩んでいると、ガラスの割れる旋律――嫌いな音に、初葉は耳を塞いで縮こまる。
憶えてもいない過去がそうさせるのか、初葉の足は完全に止まっていた。
だから、扉の中から誰かが出て来たのに気付かなかった。
「……はつ、は?」
呼びかけられ、初葉は顔をあげる。と、悠の姿があった。
だけど、声は出てこなかった。
「……良かった。無事、だったんだ……」
悠は淡々と漏らす。
「ごめん。すぐに、そいつを殺すから……」
初葉には、言葉の意味を理解できなかった。
それでも、悠の目が腰を抜かしている男に向けられ、近づいていく様子を見ている内に悟る。
――本気だ。
悠は本気で人を殺そうとしている。
なら、彼の手や袖口に付着している汚れは……
「――ねぇっ! さっき誰か来なかった?」
自分でも、驚くようなつんざく声。
「……誰かって?」
なのに、悠の反応は薄い。
対して、間にいた男はなんとも言えない顔で初葉の顔を眺めていた。
もしかするとたった今、彼女の存在に気付いたのかもしれない。
「私を、助けてくれた人」
「そんな人は知らない。ここにいたのは、みんな、酷い奴らだ」
そんなはずはないと思いながらも、初葉は次の言葉を見つけられないでいた。
「みんなして、俺の家族を奪っていく。もう少しで、由宇も奪われるところだった。俺が、忘れていた所為で……」
「……由宇は無事、なの?」
「あぁ、今は眠っている。本当、眠っていて良かった。俺のように、起きていなくて……良かった」
脈絡もなく、悠は泣きだした。
子供のように、見たこともない泣き方をする。
「……ねぇ、近江どうしちゃったの?」
堪らず、初葉は吐き出す。
「私、わかんないよ。近江が言っていることが、ぜんぜんっ! わかんないんだけどっ!」
「知らなくて、いい。あんなこと……初葉は知らないままでいい」
泣いていた悠が、今度は怒りだした。
「あんなこと――! そうだ、早く殺さなきゃ。全部、殺さなきゃ!」
支離滅裂なことを喚きながら、悠の足がまた進む。目的の男は立ち上がることもできず、お尻で滑るように後ずさっている。
「――駄目!」
庇うように、初葉は男の前に立ちはだかる。
「駄目、だよ、近江。殺すなんて……冗談、だよね?」
自分に向けられている訳でもないので、怖い。初葉の身体は震え、声を発するのも辛い。相手がよく知っている悠だから、どうにかなっているだけだ。
そうじゃなかったら、きっと後ろにいる男のようになっている。
「初葉は知らないから、そんなことが言えるんだ」
冷たい声。悪寒が走る。駄目だ、止められない。自分では、どうすることもできないと初葉は悔し涙を流す。
「大丈夫だよ。すぐに、終わるから」
先ほどから、悠の声と表情は目まぐるしく変わっていた。怒ったり、泣いたり、冷たかったり、優しかったり、怖かったり――意味がわからない。
「だから、初葉は由宇のことを頼む」
奥にいるから、と悠は横切る。
手を伸ばせば届くのに、初葉にはできなかった。
後ろでは、激しい落下音。男は階段を転げ落ちるように逃げたのか、淡々とした悠の足音が追いすがる。
一人になり、初葉は自分の身体を抱きしめる。震えて、泣いているだけの無力な自分を――
そんな初葉に近づく影――奥の扉から、誰かが出てきた。