第2話

文字数 2,966文字

 その日、ユースケは実験の練習や研究に全く集中できないまま、早めに研究室を後にした。シンヤは結局、机の上の片づけと、ソウマとの軽いディスカッションを行なっただけで帰ってしまったため、その復帰を知っているのはユースケとソウマ以外には同じように早めに来ていたレイだけだった。集中できずにぼんやりしていたことを特にノリアキにはからかわれたが、放っておいてほしくて早々に切り上げてきた。
 食堂の席でぼんやりと天井を見つめながら、自殺したという人について想いを巡らせる。
 二年前の一年生のときにも、望遠大学校で自殺者が出たという噂が流れた。流石に当時のユースケはすぐに真に受けることはなく、「なんて不謹慎なでたらめを流すんだ」と憤慨していたが、大学校全体でその噂を何となく受け入れるようにしんと静かな雰囲気になったのを肌身に感じて、途端に望遠大学校を不気味に思い怖くなった。周りの同学年が何となくその噂を右から左へ流そうとしている中、付き合いの長いタケノリやユズハは「ユースケはユースケだろ、気にすんな」とか、「あんたはそれでも前を向くんでしょ」と慰めてくれた。そのときの落ち込みようを知っていたリュウトも今回、ユキオたちと一緒になって、タケノリたちのように慰めようとしてくれていたことに、ユースケは感謝してもしきれなかった。
 かつてラジオを通じて世界にはそんな人が多いということを聞いて知っていたはずだったが、意外にもそんな恐ろしい世界がすぐ傍に転がっているのだと改めて実感させられていた。二年前にそう思い、もう大丈夫だと割り切って考えていたつもりだったが、今回も前回と同じように、思った以上にショックを受けている自分が不思議で仕方がなかった。
「そんな風に天井ぼうっと見上げて、どうしたの」
 優しく気遣われる声に顔を降ろすと、帽子を目深に被ったフローラが「んっ」と小さく手を挙げていた。気難しそうに眉を顰めたまま、ユースケの手の平に握られた食券を取っていき、「ほら、行こうよ」とユースケの手を引いて行く。背丈に反して意外に小さな手の感触に、ユースケはフローラのことが急に愛しくなって抱きしめたい衝動に駆られるが、何とか堪えて、フローラと共に食事を受け取りに行く。
 フローラとはあれからもずっと、遅めの夕食を共にする関係が続いていた。フローラに初めてうどん以外の物を食べさせて以来、フローラがあのときのように何か強く詰問することはなく、静かに夕食を食べるようになった。その穏やかな時間が、ユースケにとっては何よりの癒しとなっており、この関係がずっと続けばいいのになと願っていた。
「ねえ、何か浮かない顔してるね。どうしたの」
「んー、それがさー、嫌な噂を聞いちまってよー」
 フローラはユースケの話を聞きたがっていた。それは別にユースケも構わなかったのだが、代わりにとフローラのことについて詳しく訊こうとしても何故かちっとも答えてくれなかった。唯一教えてくれたのは、フローラは海外生まれの人だということだけだった。その情報だけでも「だから青い瞳をしているのか」とユースケは妙に納得でき、その事実が心の中にすとんと落ちると、これまで以上にフローラへの想いが強くなっていた。そんな話でいちいち感慨に浸るユースケにフローラは「変な人ね、ユースケって」と笑っていた。
「そう……でも、貴方のお友達というわけではないんでしょ?」
「そうだけどさ……なんか、世の中って暗いなって。いや、世の中が暗いから落ち込んでるわけじゃないんだけど……何だかなあ」
 ユースケの返答も要領を得ない。それでもフローラは生真面目な表情でユースケのことをまっすぐ見つめながら、手元の照り焼きに手をつける。
「んー……貴方はどうしても優しすぎるね。そんなこと、世界中のどこにでも転がってる出来事なのよ。この国にいるだけまだマシだよ、ユースケたちは」
 フローラはお腹が空いていたのか、気合を入れるように、大きく口を開けて照り焼きの塊を頬張る。両側の頬を膨らませるとまるで怒っているような顔になるが、ユースケももうすっかり怒っているわけではないのだと分かっていた。ユースケもフローラの意気の良さを見習って同じようにカレーうどんを精一杯口にかき込む。しかし、カレーのエキスが喉で変な風に絡まり、噎せ返る。フローラが口を頬張らせながらも、心配したように慌ててユースケの背中を叩く。
 何とか飲み込んで、ユースケは水を飲む。冷たい水が身体の中に流れていくことで身体がわずかにひんやりとし、それによって不思議とこんがらがっていた頭も少し落ち着いてきたような気がした。しかし、依然として表情の晴れないユースケに、フローラは不満そうに頬を膨らませた。
「ユースケは、宇宙船を作るんでしょ? だったら、他人に振り回されちゃダメよ。その優しさは貴方の良いところだってのは知ってるけど、うだうだしてるのは貴方らしくないわ」
「そう簡単に割り切れねえよ~」
 情けなく机に突っ伏してうだうだ言っているユースケを、フローラは優しく見守りながら、こっそりユースケのカレーうどんを盗み食いした。いつもだと、敏感にその気配を察知して仕返しにフローラのところから盗み食いし返しているのだが、今日のユースケはそんな気力も湧かないらしく机に突っ伏したままフローラがカレーうどんを食べる姿をぼうっと見つめていた。美味しさに頬を綻ばせる度に、伸びてきたブロンドの髪がふわりと揺れる。ユースケはやはり、そんなフローラの姿を見ているだけで心のどこかが満たされていくような充実感を覚えたが、同時に自殺者の噂と疲れ切ったシンヤの表情とが脳裏をよぎり、正体の掴めない不安が胸を埋めた。
 食事の時間も瞬く間に過ぎ、ユースケとフローラが食堂を出ると身も凍えるほどの寒風がぴゅうっと強く吹き付けてきた。日もすっかり短くなり、馴染みの景色もとっくに暗闇に染まっていた。何ともない道のはずなのに、ユースケはその暗闇から自殺者の亡霊が浮かび上がってくるのではないかという気になってしまい、フローラの手を強く握る。フローラはそんなことを気にする素振りもなく「もうすっかり寒いわね」とマイペースに感想を漏らしていた。ユースケとしては「かえで倶楽部」のバイトが終わった後にそのまま家まで送り届けたいところなのだが、フローラは断固としてその厚意を受け取ろうとはしなかった。今日も結局、校門のところまで来たところで、フローラは「また明日、お願いね」と告げて別れようとした。
「本当に大丈夫? 危険な目に遭いそうになったら、塀を登ってでも俺の部屋のところまで来てよ」
「もう。貴方の寮は、異性は入れちゃいけないんでしょ?」
「人が危ないってときにそんなこといちいち守る奴なんていないよ。良いから、約束してよ」
「はいはい。分かったから。ありがとうねユースケ。ユースケも、早く元気になってね」
 フローラは呆れたようにため息をつくも、柔らかい瞳でまっすぐにユースケを見つめ返しながら、そのまま街の中へと消えていった。ユースケはフローラの姿が見えなくなるまで校門のところで見送った後、途端に虚しさに襲われ、頭がぼうっとしていくような感覚がしてきて、それを振り払おうと寮まで全速力で走った。
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登場人物紹介

ユースケ

主人公。能天気で素直な性格。生まれつき体の弱い妹のユリを溺愛する。

ユズハ

ユースケの幼馴染み。ユースケと違って真面目なしっかり者。

ユリ

ユースケの妹。体が弱く学校に通えず、母親の手伝いをして過ごしている。

タケノリ

ユースケやユズハの幼馴染み。フットサル部に所属する好青年。

カズキ

ユースケたちの友達。ユースケと並んで成績が悪いお調子者。

セイイチロウ

ユースケたちの友達。長身ながら臆病者。ユズハに好意を寄せている。

アカリ

ユースケたちと幼馴染みでユズハの親友。ユースケに好意を寄せる。

ユミ

ユースケたちの同級生で学年一の成績を誇る。

リュウト

ユースケと同期のイケメン枠。工学府に所属する。

ユキオ

臆病でびくびくしている。ユースケ、リュウトと同じく工学府に所属する。

チヒロ

リュウトの彼女。友好関係が広い。社会開発学府に所属する。

フローラ

突如大学校の書店で働き始めたブロンドヘアの美女。

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