第4話

文字数 3,363文字

 もう一度、勉強のことで話を訊いてみようかとユースケは思った。一度だけ見てくれたものの、そのときはすごい剣幕で怒鳴られっぱなしであり、次に頼んでみたときには呆れられたのか、嫌だと一言でバッサリ切り捨てられてしまっていた。それから話しかけようという気はなくなっていたのだが、やはり勉強のことでユミに何か話を訊ける分には悪いことはなかった。また断られるかもしれないなあ、とユースケが悩みながら本を眺めていると、ユミの方が先に口を開く気配がした。
「だから貴方も勉強頑張っているのね……大学校に行ってそのための研究をするつもりってことなんでしょ」
 まるで独り言のように言うものだから、初めは自分自身に話しかけていると思わず、途中で気づいたユースケは曖昧に返事することしか出来なかった。研究、という新しいフレーズが出てきて、ユースケはその言葉が何だかしっくり来るような気がした。そうか、研究でどうにかするのか。そういえばと、コトネが別れ際にそんなようなことを言っていたのを思い出した。
「なあ、また勉強見てくれよ。ユミ頭良いんだろ」
「嫌よ」
 いつもより柔らかい雰囲気になったのを肌で感じ、これはいけると確信したユースケが改めて訊いてみたが、予想に反してユミは一言であっさりと切り捨ててきた。あまりに呆気なく、いっそ清々しいほどまでに断られるものだから、出鼻をくじかれたユースケは足元が乱れ、倒れそうになるのを本棚に手をつくことで防いだ。
「私だって、勉強している理由があるの。貴方に構う暇なんてないから。それに」
 ユミは探していた本を見つけたらしく、そこで言葉を区切って、どこからか脚立を持ってきて、それに昇って本を取った。ユミは脇に数冊の本を抱えながら去ろうとして、ユースケの方をちらりと振り返る。眼鏡の奥にある瞳は、いくらか優しげだった。
「私は自力で手に入れたものを簡単に他人に渡したくないの。貴方も、その気持ちが本気ならその程度のことは自力でどうにかしてみなさいよ」
 ユミはそれだけ言い残してユースケの元から去った。ユミの言葉がずしりと心に沈んでいくようで、ユースケはユミのいなくなった方をじっと見つめていた。ふと、それまで大して知らなかったアカリの家庭事情を知ったときのことを思い出し、勉強をその程度と言ってのけるユミにも何か簡単に人には言えない事情とやらがあったのかもしれないと、ユースケは想像しながら、本棚から離れて、席に戻って勉強を再開させた。
 皆を何とかするには大学校。惑星ラスタージアに行くためにも大学校。そんな大学校とはいったいどんなところで、どんなことが待っているのかと、ユースケは淡い期待を膨らませながら大学校という言葉を心の中で唱え続けた。

「俺、大学校に行くよ」
 残暑もようやく過ぎ去る気配を見せ、次の季節に向けて準備を進めるように涼しい風が届いてくるようになり始めた頃、ユースケは以前母親に学校を出た後にどうするつもりかと訊かれたことを思い出して、夕食の最中に唐突にそう言った。ユースケ本人としてはそこまで重い決断をしたという感じもなく、数ある進路の一つを選んだにすぎないと考えており、母親もあっさり「あらそう」と答えてそれで終わる話だと思っていた。しかし、そんなユースケの予想とは違って、母親もユリも明らかに動揺して、母親は箸を止め、ユリに関してはその箸から料理が零れ落ちていた。勿体ないなと感じながらユースケがそれを拾ってパクっと口に放ると、ユリはドン引きして椅子ごと身体をユースケから遠ざけた。
「き、急に言うねあんた。そもそもあんた本当に行けるの? 行った後どうするか考えてるの?」
「な、なんだよ、そんな一気に聞かないでくれって」
「だって、そんな、ねえ……あんたがまさかそんなこと言うとは思わなかったから」
 散々な言い振りであったが、自分でも以前までならそんなこと決して考えていなかったようなことだったので、ユースケも黙ってその言い分を聞いていた。しかし、そんな文句(?)を言われたところで話は進まないので、ユースケも「俺、大学校に行くから」ともう一度言った。途端に母親は面倒臭そうに顔を顰めた。
「お兄ちゃん、大学校行くんだね……」
 ようやく衝撃から抜け出せたのか、ユリが寂しそうに呟いた。沈んだ声で、表情も暗く箸を止めたユリの様子に、ユースケもたじろいで手をあたふたさせる。手に箸を持ったままだったから、それがテーブルやユリの身体に当たりそうになり、ユースケは慌てて箸を置いてから律義に手をあたふたさせるのを再開した。そのユースケの様子が目に入っていたのか、ユリがぷっと噴き出して「もう変なことしないでよ」と言った。ユリは手の力を確かめるようにぐっと握っては開いてを繰り返してから、潤んでいる瞳の近くを拭うような素振りをした。
「お兄ちゃんも、変わっていくんだねえ。前までは情けないぐらい何も考えてなさそうだったのに」
「なあ、ユリから見てお兄ちゃんってそんなにそんなだったのか?」
「うん」
 夕食が終わり、ユースケは何となくリビングのソファの横でごろんと寝っ転がった。ユリが「食べてすぐ横になるの良くないよ」と注意しながら、ソファにどてっと座った。テレビを点けて、今日もユリはニュース案組をぼうっと眺めていた。ユースケはそれを子守唄のように聞きながらうとうとし始めた。遠くで母親が風呂を入れている水音が聞こえてきた。
「お兄ちゃんさ、昔から行動力だけはすごいよね」
「んー? どうした急に」
「この間も、何とかさんって人の町に二週間もいるんだもん。それも行き当たりばったりで。普通じゃないよ」
 批難するような口振りだったが、ユリの声は静かで、どこか諦観めいたように混じりけのない透き通った声をしていた。ユースケはその声の心地良く思い、ますます瞼が重くなっていくのを感じた。
「だからさ、大学校行くって決めたら、お兄ちゃん、本当に行ってきちゃうよね。今は多分おバカさんだけどさ、それもお兄ちゃんの行動力できっと何とかしちゃうんだよね」
「んー、まあ頑張るさあ」
 眠気に誘われっぱなしのユースケはそんな返事を返すので精一杯だった。しかし、そんなユースケの生返事にもユリは怒らず、むしろ瞳をますます哀しい色に染めていった。ユリの瞳にはもはやテレビの映像は映っておらず、この家の将来の光景を浮かべていた。
「いつか定年退職するお父さんが帰ってくるけどさ、お兄ちゃんはその頃になったら、きっとどこかで一生懸命頑張る人になってるんだよね。昔からお兄ちゃん、頑固で、困ってる人を放っておけなくて、いつでも自分の思うように生きてて……こうと決めたら、すんごい強かった」
 ユリは昔を懐かしむように天井を見上げた。天井には、昔ユースケがふざけて小さいボールをタケノリと投げ合って遊んだ時に付けた凹みがくっきりと残っていた。ユリはユースケに見られていないのを確認して、そっと目元を拭った。
「アカリさんと話して、何があったのかは知らないけどさ。お兄ちゃんなら、絶対大学校に行けるから。むしろ、絶対に行ってよね。お兄ちゃんは、めちゃくちゃでもそうと決めたら絶対にそれをする人なんだからさ」
 ユースケの返事はもはやなかったが、それでもユリはユースケに向けて話し続けた。遠くで風呂が沸いたようで、母親が外に干していた洗濯物を取り込もうとする物音が聞こえてきた。ユリはもう一度目元を拭って、手についた水滴を払って立ち上がろうとしたが、途端に足元がふらついた。そのまま立ち上がるのに失敗し、もう一度ソファに深く座り込んでしまう。ユリはもう一度立ち上がろうとするも、急な吐き気と腹痛に襲われ、それらを押さえようと慌てて天井を仰ぎトイレに向かおうとするが、腰やらソファのひじ掛けに置いた腕やだらんと伸びた足に力が急に入らなくなり、ユリは力なくソファに横になるように倒れた。それまで、語っている内容ははっきりとは分からずとも心地の良いユリの声音を子守唄のように聞いていたユースケは、まるで野生の本能のごとく、何やら不穏な気配を察して目を開けた。そして、ソファの上でユリが顔を真っ青にし、白目の部分を黄色くさせてぐったりしているのを見て、一気に眠気が吹き飛んだ。
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登場人物紹介

ユースケ

主人公。能天気で素直な性格。生まれつき体の弱い妹のユリを溺愛する。

ユズハ

ユースケの幼馴染み。ユースケと違って真面目なしっかり者。

ユリ

ユースケの妹。体が弱く学校に通えず、母親の手伝いをして過ごしている。

タケノリ

ユースケやユズハの幼馴染み。フットサル部に所属する好青年。

カズキ

ユースケたちの友達。ユースケと並んで成績が悪いお調子者。

セイイチロウ

ユースケたちの友達。長身ながら臆病者。ユズハに好意を寄せている。

アカリ

ユースケたちと幼馴染みでユズハの親友。ユースケに好意を寄せる。

ユミ

ユースケたちの同級生で学年一の成績を誇る。

リュウト

ユースケと同期のイケメン枠。工学府に所属する。

ユキオ

臆病でびくびくしている。ユースケ、リュウトと同じく工学府に所属する。

チヒロ

リュウトの彼女。友好関係が広い。社会開発学府に所属する。

フローラ

突如大学校の書店で働き始めたブロンドヘアの美女。

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