第11話 その人の名前は、フローラ
文字数 2,937文字
噴水広場に着くと、まばらに人の通りがあり、「かえで倶楽部」の看板も妖しく光っていた。ここまで来ると、女性に会えるかもしれないという期待で再び興奮してきたユースケだったが、却って心の準備が必要な気がしてそれ以上足が動かなくなった。変なところで意気地のない男である。
「おい、さっさと行こうぜ」
「いや、ちょっと待て、もうちょい心の準備が出来てからだな」
「ごちゃごちゃ言ってねえで行くぞっ」
強引なナオキにユースケも頑なに行こうとせず揉みあいになっていると、「かえで倶楽部」の扉が開く気配がして、二人は慌てて物陰に身を潜めた。「かえで倶楽部」から、何人か体格の厳つい男性たちが女性たちを引き連れて出てきていた。背丈ならユースケが勝っているが、肩幅やら腕の太さやらはユースケとは比較にならず、ユースケも思わず息を潜めた。しかし、その集団の中に混じる何人かの女性たちに、例の女性がいることに気がついてついユースケは本能的に身を乗り出した。その女性も不審な気配を察知したのか、ユースケの存在に気がつき、一瞬その表情を歪めた。
「お、おい、お前本当にあの群れの中に突っ込むのか。死ぬぞ」
隣でしゃがんでいるナオキが声を潜めて止めようとしてくるが、ユースケもその女性と不意に視線が合ったことで金縛りにあったように動けなくなっていた。女性も、嫌そうに歪めてはいるものの何か躊躇うように目を泳がせており、先日警察を呼ぶと豪語した強気な態度は何故かなかった。そのまま何事もなくその集団が去っていくかに思えたが、一人が女性の様子に気が付いた。
「おい、あのヤバそうな奴らに見つかる前にずらかるぞ」
ナオキの意見に全面的に賛同したユースケは、何とか足を動かして、再び身を潜めながら、彼らに気づかれないように移動して大学校へと戻っていった。
「昨日はサークルの奴らと飲みに行ってて酔ってたんだよ」
翌朝、いつも通りナオキにたたき起こされて朝食を摂っていると、ナオキがそんなことを言ってきた。曰く、初日の客の入りが思ったよりも良く、軽い打ち上げみたいなつもりで飲み会を開いたらすっかり盛り上がってしまった、ということであった。
「だからこの後あの本屋に行くってのはなしだからな」
「いやいや、そこを何とかお願いしますって旦那~」
昨夜、あのまま互いに黙ったまま静かに部屋に戻った後も、ユースケの興奮は鳴り止まず、朝になっても継続していた。今日も研究室で展示が開かれているが、ユースケは午後からの受付を任されているだけだったので、午前中に例の本屋に着いて来て欲しいと頼んでいるところであった。
「あ、じゃあ分かった。これで最後にするから。次からはナオキ以外の奴に頼むから。それなら良いだろ?」
「お前もめげねえなあ。あんな店で働いてて、あんなヤバそうな奴らと一緒にいるとこ見てまだそんなこと言えるんだからな」
「どゆこと?」
「ありゃ、お前の手に負えない女ってことだよ」
結局、ナオキも本屋には用があるらしくついて来てくれることになったが、「お前が振られる様をよーく目に焼き付けとくよ」と失礼なことを言っていた。ユースケもそれに反発しようとしたが、ふとナオキの言葉に、自分でもあの女性とどうなりたいのかがよく分かっていないことに気がついた。ここまで心惹かれ、ときには何も手が着かなくなるぐらい思考を支配されていたこともあったが、では具体的にどうなりたいのかと改めて自身に問うてみると、驚くほど何も浮かんでこなかった。
そんなもやもやした頭をかき乱すように、ナオキが「ほれ、さっさと振られに行こうぜ」とほざいてくるので軽く頭を小突いてやってから本屋へと向かった。
祭りで盛り上がる校内では人で溢れかえっていた。ただでさえ人数の多い校内学生が参加しているだけでなく、解放された校門からは一般の人たちも来訪することが出来たため、校内は本当に一つの都市のように賑わった。ユースケたちは人垣をかき分けてこそこそとショッピングセンターに入り、本屋へと向かった。
本屋の店員の中に、例の女性はいなかった。しかし、互いの思惑は違うにせよ目的の同じ二人は、簡単に引き返したりはせずに、適当に本を見て回ることで時間をつぶしてその女性が現れるのを待った。ユースケもついでにと、自分の研究室に関係がありそうな本を探し、ナオキは小説のコーナーをひたすら眺めていた。祭りに人が流れているため、本屋は人が少なく居心地が良かったが、却って本を眺めて粘っているユースケたちの存在は目立ってしまった。
そろそろ何か本を買おうかとユースケが本に当たりをつけ始めると、その女性は現れた。レジに向かう途中でその女性がレジで待機しているのを発見して、ユースケは足が止まった。女性の表情にはやはり、学校の外で会ったときに見せた来るものすべてを傷つけるような刺々しい雰囲気は潜め、本屋で散々見かけてきた控えめな営業スマイルが浮かんでいた。出る前、ナオキに「お前の手に負えない女」と評されていたが、ユースケには今の姿が本当に演技なのか、校内と校外それぞれで見た彼女のどっちが本当の姿なのか、分からなくなっていた。
ユースケが立ち竦んでいるうちにナオキが後ろにやって来て「早く行って来いよ」と急かしてくる。同時に、ユースケとナオキがもたもたしている気配を察知したのか、その女性がユースケの存在に気がついた。そして、案の定嫌悪を滲ませるように眉を歪めたが、口の形は営業スマイルの形を保っている。
ユースケは一度深呼吸した。明らかに自身を嫌がっていると分かっているのに、胸が高鳴るのを押さえられなかった。自分でも不思議だった。もう一度深呼吸する。口に中で舌を回してみて何とか呂律は回りそうだというのを確かめてから、意を決してレジへと向かった。
「すみません、これお願いします」
ユースケが女性に本を渡すと、女性もそれを受け取ってレジに通す。ピッと鳴って値段が表示され、ユースケも財布からその値段分ぴったりの金額を取り出す。女性もそのまま受け取って何も言わずに本を差し出す。しかし、ユースケはその本をじっと見つめるだけで受け取ろうとしない。
「あの、こちらをお受け取り下さい」
「……名前を聞かせてもらったら、受け取ります」
女性の声には若干棘が籠っていたが、ユースケはまるでそれを気にすることなく、抜け抜けとそんなことを言ってのけた。その台詞には女性も営業スマイルを引っ込めて本気で嫌そうに表情が歪んだが、小さく「フローラ」と答えた。ユースケは本を受け取ると同時に、そのフローラの手を取った。後ろで見ていたナオキも呆気にとられ、フローラも虚を突かれて驚いたようにユースケのことを見ていた。
「お願いしますフローラさん。今晩、一緒にご飯を食べに行きませんか」
後ろで「あちゃあ」というナオキの心の底から嘆く声が聞こえてくるが、ユースケはまるで気にならなかった。ユースケの言葉に、フローラもすぐには答えず、嫌そうな表情を浮かべながらも自身の手を握るユースケの手とユースケとを交互に見ていた。そして、ナオキの予想を裏切り、フローラは瞳に困惑した色を滲ませながらも、「いいよ」と答えたのであった。
「おい、さっさと行こうぜ」
「いや、ちょっと待て、もうちょい心の準備が出来てからだな」
「ごちゃごちゃ言ってねえで行くぞっ」
強引なナオキにユースケも頑なに行こうとせず揉みあいになっていると、「かえで倶楽部」の扉が開く気配がして、二人は慌てて物陰に身を潜めた。「かえで倶楽部」から、何人か体格の厳つい男性たちが女性たちを引き連れて出てきていた。背丈ならユースケが勝っているが、肩幅やら腕の太さやらはユースケとは比較にならず、ユースケも思わず息を潜めた。しかし、その集団の中に混じる何人かの女性たちに、例の女性がいることに気がついてついユースケは本能的に身を乗り出した。その女性も不審な気配を察知したのか、ユースケの存在に気がつき、一瞬その表情を歪めた。
「お、おい、お前本当にあの群れの中に突っ込むのか。死ぬぞ」
隣でしゃがんでいるナオキが声を潜めて止めようとしてくるが、ユースケもその女性と不意に視線が合ったことで金縛りにあったように動けなくなっていた。女性も、嫌そうに歪めてはいるものの何か躊躇うように目を泳がせており、先日警察を呼ぶと豪語した強気な態度は何故かなかった。そのまま何事もなくその集団が去っていくかに思えたが、一人が女性の様子に気が付いた。
「おい、あのヤバそうな奴らに見つかる前にずらかるぞ」
ナオキの意見に全面的に賛同したユースケは、何とか足を動かして、再び身を潜めながら、彼らに気づかれないように移動して大学校へと戻っていった。
「昨日はサークルの奴らと飲みに行ってて酔ってたんだよ」
翌朝、いつも通りナオキにたたき起こされて朝食を摂っていると、ナオキがそんなことを言ってきた。曰く、初日の客の入りが思ったよりも良く、軽い打ち上げみたいなつもりで飲み会を開いたらすっかり盛り上がってしまった、ということであった。
「だからこの後あの本屋に行くってのはなしだからな」
「いやいや、そこを何とかお願いしますって旦那~」
昨夜、あのまま互いに黙ったまま静かに部屋に戻った後も、ユースケの興奮は鳴り止まず、朝になっても継続していた。今日も研究室で展示が開かれているが、ユースケは午後からの受付を任されているだけだったので、午前中に例の本屋に着いて来て欲しいと頼んでいるところであった。
「あ、じゃあ分かった。これで最後にするから。次からはナオキ以外の奴に頼むから。それなら良いだろ?」
「お前もめげねえなあ。あんな店で働いてて、あんなヤバそうな奴らと一緒にいるとこ見てまだそんなこと言えるんだからな」
「どゆこと?」
「ありゃ、お前の手に負えない女ってことだよ」
結局、ナオキも本屋には用があるらしくついて来てくれることになったが、「お前が振られる様をよーく目に焼き付けとくよ」と失礼なことを言っていた。ユースケもそれに反発しようとしたが、ふとナオキの言葉に、自分でもあの女性とどうなりたいのかがよく分かっていないことに気がついた。ここまで心惹かれ、ときには何も手が着かなくなるぐらい思考を支配されていたこともあったが、では具体的にどうなりたいのかと改めて自身に問うてみると、驚くほど何も浮かんでこなかった。
そんなもやもやした頭をかき乱すように、ナオキが「ほれ、さっさと振られに行こうぜ」とほざいてくるので軽く頭を小突いてやってから本屋へと向かった。
祭りで盛り上がる校内では人で溢れかえっていた。ただでさえ人数の多い校内学生が参加しているだけでなく、解放された校門からは一般の人たちも来訪することが出来たため、校内は本当に一つの都市のように賑わった。ユースケたちは人垣をかき分けてこそこそとショッピングセンターに入り、本屋へと向かった。
本屋の店員の中に、例の女性はいなかった。しかし、互いの思惑は違うにせよ目的の同じ二人は、簡単に引き返したりはせずに、適当に本を見て回ることで時間をつぶしてその女性が現れるのを待った。ユースケもついでにと、自分の研究室に関係がありそうな本を探し、ナオキは小説のコーナーをひたすら眺めていた。祭りに人が流れているため、本屋は人が少なく居心地が良かったが、却って本を眺めて粘っているユースケたちの存在は目立ってしまった。
そろそろ何か本を買おうかとユースケが本に当たりをつけ始めると、その女性は現れた。レジに向かう途中でその女性がレジで待機しているのを発見して、ユースケは足が止まった。女性の表情にはやはり、学校の外で会ったときに見せた来るものすべてを傷つけるような刺々しい雰囲気は潜め、本屋で散々見かけてきた控えめな営業スマイルが浮かんでいた。出る前、ナオキに「お前の手に負えない女」と評されていたが、ユースケには今の姿が本当に演技なのか、校内と校外それぞれで見た彼女のどっちが本当の姿なのか、分からなくなっていた。
ユースケが立ち竦んでいるうちにナオキが後ろにやって来て「早く行って来いよ」と急かしてくる。同時に、ユースケとナオキがもたもたしている気配を察知したのか、その女性がユースケの存在に気がついた。そして、案の定嫌悪を滲ませるように眉を歪めたが、口の形は営業スマイルの形を保っている。
ユースケは一度深呼吸した。明らかに自身を嫌がっていると分かっているのに、胸が高鳴るのを押さえられなかった。自分でも不思議だった。もう一度深呼吸する。口に中で舌を回してみて何とか呂律は回りそうだというのを確かめてから、意を決してレジへと向かった。
「すみません、これお願いします」
ユースケが女性に本を渡すと、女性もそれを受け取ってレジに通す。ピッと鳴って値段が表示され、ユースケも財布からその値段分ぴったりの金額を取り出す。女性もそのまま受け取って何も言わずに本を差し出す。しかし、ユースケはその本をじっと見つめるだけで受け取ろうとしない。
「あの、こちらをお受け取り下さい」
「……名前を聞かせてもらったら、受け取ります」
女性の声には若干棘が籠っていたが、ユースケはまるでそれを気にすることなく、抜け抜けとそんなことを言ってのけた。その台詞には女性も営業スマイルを引っ込めて本気で嫌そうに表情が歪んだが、小さく「フローラ」と答えた。ユースケは本を受け取ると同時に、そのフローラの手を取った。後ろで見ていたナオキも呆気にとられ、フローラも虚を突かれて驚いたようにユースケのことを見ていた。
「お願いしますフローラさん。今晩、一緒にご飯を食べに行きませんか」
後ろで「あちゃあ」というナオキの心の底から嘆く声が聞こえてくるが、ユースケはまるで気にならなかった。ユースケの言葉に、フローラもすぐには答えず、嫌そうな表情を浮かべながらも自身の手を握るユースケの手とユースケとを交互に見ていた。そして、ナオキの予想を裏切り、フローラは瞳に困惑した色を滲ませながらも、「いいよ」と答えたのであった。