第19話 想いの丈
文字数 3,340文字
惑星ラスタージアを目指すと啖呵を切って小さな世界を飛び出して望遠大学校に来たのは良いものの、大学校に来てからは一度も惑星ラスタージアを観測していないなと、ユースケは頭上に広がる見事な星空を見上げながら思っていた。爛々と輝く星々は、橋を渡った先にある、暗い世の中の雰囲気をも吹き飛ばさんばかりの賑やかな街の輝きにも負けないほど光っており、その美しさはユースケが地元で見てきた景色に勝るとも劣らない絶景であった。このような美しい景色の下にいる自分たちも頑張らねばと、ユースケは勝手に張り切っていた。
「……星、遠いなあ」
「じっくり見たことってあんまりなかったよね。惑星ラスタージアも、僕見たことないし」
「あれは、まあまあって感じだな。百点満点中、八十点って感じ」
「何だよそれ」
隣に立つユキオとリュウトも、ユースケと同じように星空に見惚れていたようで二人とも深いため息をついていた。ユースケにとってはすっかり日常の一部であった惑星ラスタージアも、ユキオにとっては非日常の代物であることを改めて実感した。
ユースケたちは今、大学校近くにある川を渡る橋の上で、フローラがチヒロと思しき人物を連れてくるのを待っていた。フローラは二人のシフトが終わってから来ると言っていたため、少なくともユースケとユキオは寮の門限には間に合わないことが確定していた。それを気に留めたリュウトが、一人暮らししている家に招くと言っていたため問題はなかったが、ユースケはたとえ野宿になったとしても構わない気でいた。
「ユースケ君は惑星ラスタージア見たことあるんだ。ねえねえ、どんな感じなの?」
「うーん、青い」
「感想が薄っぺらすぎんな」
フローラが来るまでの間、ただでさえ寒い星空の下、何か話していないとじっと待っていることなど出来そうになかったため、こうして他愛もない会話が続く。ユースケがつまらなそうに惑星ラスタージアについて語っていても、ユキオの興味は損なわれないようで、若干興奮気味に話を聞いてくれていた。リュウトも特に関心を示しているわけではなかったが、つまらなそうに話すユースケに時折突っ込みを入れていた。
静かだった。それは嵐の前の静けさなのか、三人ともが何かを予感してピリピリしているからなのかは、ユースケには分からなかった。それでも、チヒロが戻ってくれれば、いつものようにリュウトにゾッコンなチヒロになってくれれば、何事もなく元に戻るだろうと信じていた。
惑星ラスタージアについて、地元にいたときからユズハのように熱心だったわけでもなく、今も専門に研究しているわけではないため、やがて惑星ラスタージアについての話題も途切れていった。途端に静寂が訪れ、橋下で魚がぴしゃりと跳ねる音が聞こえた。
「ねえリュウト君……もしフローラさんが連れてくるのがチヒロさんだったら、何て言うつもりなの?」
ユキオが、緊張した声でユースケを挟んだ横に並ぶリュウトに尋ねる。川の水面は暗黒で、自分たちの影すら映していない。一体魚はどこを泳いでいるのだろうか。
ユキオが尋ねてからしばし経っても、リュウトから返事はなかった。暗闇の中でユキオが取り乱しそうになる気配を感じて、ユースケがリュウトの様子を窺うも、リュウトは川に視線を落としたまま、どんなものも瞳に映さぬままぼんやりとしていた。あまりにも虚ろなその雰囲気に、一瞬ユースケは嫌なものを予感してリュウトの肩を掴むが、リュウトは目を覚ましたように瞼をぱちくりさせながら、ユースケの方に首を動かした。
「チヒロを……俺は、そうだな、俺は……」
震える声のリュウトの、その言葉の先を辛抱強く待っていると、やがて橋の向こうから歩いてくる気配がしてユースケはリュウトを制して注意深くそちらの方を窺う。橋の始まりにある弱々しい街灯がぼんやりと二つの人影を照らしていたが、逆光で表情までは分からない。しかし、背の高い方の人影は少なくとも、自分の愛するフローラのものであると、ユースケはその歩き方や腕の振り方、髪の揺れ方からすぐに見抜いた。
「二人が来たみたいだ」
ユースケが小さく囁くと、三人はさっと俯いて水面を睨むようにした。やがてその二人の声が近づいてきて、背後を通り抜けようとしたとき、確かに聞いた。
「私、どうしてもお金が欲しくて……」
「あら、そうなんですね。私も、そうなんです」
お金が欲しいと言ったのは、フローラではなかった。お金。その言葉が鈍く頭に重しとなって残ったと同時に、ユースケは、人生で初めて経験する感情に、足が竦んで身動きできそうになかった。途端に胸を掻きむしりたくなって、ユースケの気力をみるみる削いでいった。
二人はそのままユースケたちの背後を通り過ぎた。そろそろ二人の前に立ちはだからなければならないのに、ユースケの足は嘘のように動かなかった。そのまま心の準備も出来ぬまま、リュウトが一度大きく深呼吸して、駆けだした。
「待て、チヒロ!」
遠くで、リュウトのそう叫ぶ声が聞こえて、その直後に、確かに、チヒロのはっと息を呑む声が聞こえた。ユキオもその声につられて駆けだそうとしたとき、動かないままのユースケのことを心配そうに見つめてきた。ユースケは言葉に出す余裕もなく、首を横に振るだけだったが、ユキオはそれだけで察してくれたのか、そのままリュウトの方を追いかけていった。
ユキオは聡い。リュウトも勘が鋭い。それなのに、二人はチヒロの前に立ち塞がれる。
どうして自分は動けないのだろうか。ユースケは、初めて襲われる感情にすっかり翻弄されていた。そんな自分が情けなくて仕方がなかった。
「リュウト……振られた男が女々しいよ」
「……なあチヒロ、何してんだよ。俺は無理によりを戻そうとしに来たわけじゃない。ただ、何をしてるのかを訊きに来たんだ」
「……何それ、私にはもう未練はないってわけ? それはそれでちょっとムカつくんだけど」
チヒロは分かりやすい。ユースケたちの前で見せた無邪気さも、リュウトの前では決して見せなかった、ユースケが時々見てきたあの睨むような険悪な表情も、すべてチヒロの本音なのだ。今も、チヒロの声は、その突き放すような話し方に反して既に涙声であった。
「何も分からないまま別れるなんて嫌なんだ。俺は、お前のこときちんと理解してからじゃないと前に進めないんだ。なあ、どうして、こんな真似……」
「うっさいよ! もう構わないでよ!」
チヒロはヒステリックにそう叫ぶも、どこかへ去っていく気配はなかった。ユースケも、何とか足を動かせるほどには落ち着いてきたが、それでもとても口を挟む余裕はなかった。
リュウトと一緒に並び立つ。目の前に立つチヒロは、フローラの言っていた通り銀髪のショートヘアであったが紛れもなくチヒロ本人であり、ひどく傷ついた顔で、ユースケやユキオのことなど目にも入らぬ勢いでリュウトのことを睨んでいた。
「チヒロが嫌なら、俺ももうチヒロの前には姿を現さないから。だからせめて、どうしてかえで倶楽部で働き始めたのかを教えて欲しい」
リュウトはそのチヒロの気迫にも負けずに問いかける。チヒロがわなわなと肩を震わせている横で、フローラが困惑した顔で皆の顔を見渡す。ユースケと目が合い、ユースケがそっと首を横に振ると、フローラも何かを察したのか、チヒロを見守るように半歩下がった。
「リュウトも知ってるくせに! 私は一刻も早く実家と縁を切って、アイツらの知らない場所で暮らしたいんだって! そのために、お金が必要なんだって!」
「……だったら他の人と……誰か別の人と付き合うことだって、チヒロには出来たはずじゃ」
「あんたのことが本気で好きだったからに決まってるじゃない!」
チヒロの叫びが、寒空の下、虚しく響いた。ユースケの胸にすらその叫びに痛みが走ったのだから、リュウトにとってその叫びはどれほどの威力だったのだろうか、ユースケには想像もつかなかった。その言葉は予想外だったのか、リュウトは目を見開いたままチヒロからその瞳を離せないでいた。くしゃっと歪んだチヒロの表情は、普段やりすぎなほどに施されている化粧が微塵もされていないにもかかわらず、綺麗だった。
「……星、遠いなあ」
「じっくり見たことってあんまりなかったよね。惑星ラスタージアも、僕見たことないし」
「あれは、まあまあって感じだな。百点満点中、八十点って感じ」
「何だよそれ」
隣に立つユキオとリュウトも、ユースケと同じように星空に見惚れていたようで二人とも深いため息をついていた。ユースケにとってはすっかり日常の一部であった惑星ラスタージアも、ユキオにとっては非日常の代物であることを改めて実感した。
ユースケたちは今、大学校近くにある川を渡る橋の上で、フローラがチヒロと思しき人物を連れてくるのを待っていた。フローラは二人のシフトが終わってから来ると言っていたため、少なくともユースケとユキオは寮の門限には間に合わないことが確定していた。それを気に留めたリュウトが、一人暮らししている家に招くと言っていたため問題はなかったが、ユースケはたとえ野宿になったとしても構わない気でいた。
「ユースケ君は惑星ラスタージア見たことあるんだ。ねえねえ、どんな感じなの?」
「うーん、青い」
「感想が薄っぺらすぎんな」
フローラが来るまでの間、ただでさえ寒い星空の下、何か話していないとじっと待っていることなど出来そうになかったため、こうして他愛もない会話が続く。ユースケがつまらなそうに惑星ラスタージアについて語っていても、ユキオの興味は損なわれないようで、若干興奮気味に話を聞いてくれていた。リュウトも特に関心を示しているわけではなかったが、つまらなそうに話すユースケに時折突っ込みを入れていた。
静かだった。それは嵐の前の静けさなのか、三人ともが何かを予感してピリピリしているからなのかは、ユースケには分からなかった。それでも、チヒロが戻ってくれれば、いつものようにリュウトにゾッコンなチヒロになってくれれば、何事もなく元に戻るだろうと信じていた。
惑星ラスタージアについて、地元にいたときからユズハのように熱心だったわけでもなく、今も専門に研究しているわけではないため、やがて惑星ラスタージアについての話題も途切れていった。途端に静寂が訪れ、橋下で魚がぴしゃりと跳ねる音が聞こえた。
「ねえリュウト君……もしフローラさんが連れてくるのがチヒロさんだったら、何て言うつもりなの?」
ユキオが、緊張した声でユースケを挟んだ横に並ぶリュウトに尋ねる。川の水面は暗黒で、自分たちの影すら映していない。一体魚はどこを泳いでいるのだろうか。
ユキオが尋ねてからしばし経っても、リュウトから返事はなかった。暗闇の中でユキオが取り乱しそうになる気配を感じて、ユースケがリュウトの様子を窺うも、リュウトは川に視線を落としたまま、どんなものも瞳に映さぬままぼんやりとしていた。あまりにも虚ろなその雰囲気に、一瞬ユースケは嫌なものを予感してリュウトの肩を掴むが、リュウトは目を覚ましたように瞼をぱちくりさせながら、ユースケの方に首を動かした。
「チヒロを……俺は、そうだな、俺は……」
震える声のリュウトの、その言葉の先を辛抱強く待っていると、やがて橋の向こうから歩いてくる気配がしてユースケはリュウトを制して注意深くそちらの方を窺う。橋の始まりにある弱々しい街灯がぼんやりと二つの人影を照らしていたが、逆光で表情までは分からない。しかし、背の高い方の人影は少なくとも、自分の愛するフローラのものであると、ユースケはその歩き方や腕の振り方、髪の揺れ方からすぐに見抜いた。
「二人が来たみたいだ」
ユースケが小さく囁くと、三人はさっと俯いて水面を睨むようにした。やがてその二人の声が近づいてきて、背後を通り抜けようとしたとき、確かに聞いた。
「私、どうしてもお金が欲しくて……」
「あら、そうなんですね。私も、そうなんです」
お金が欲しいと言ったのは、フローラではなかった。お金。その言葉が鈍く頭に重しとなって残ったと同時に、ユースケは、人生で初めて経験する感情に、足が竦んで身動きできそうになかった。途端に胸を掻きむしりたくなって、ユースケの気力をみるみる削いでいった。
二人はそのままユースケたちの背後を通り過ぎた。そろそろ二人の前に立ちはだからなければならないのに、ユースケの足は嘘のように動かなかった。そのまま心の準備も出来ぬまま、リュウトが一度大きく深呼吸して、駆けだした。
「待て、チヒロ!」
遠くで、リュウトのそう叫ぶ声が聞こえて、その直後に、確かに、チヒロのはっと息を呑む声が聞こえた。ユキオもその声につられて駆けだそうとしたとき、動かないままのユースケのことを心配そうに見つめてきた。ユースケは言葉に出す余裕もなく、首を横に振るだけだったが、ユキオはそれだけで察してくれたのか、そのままリュウトの方を追いかけていった。
ユキオは聡い。リュウトも勘が鋭い。それなのに、二人はチヒロの前に立ち塞がれる。
どうして自分は動けないのだろうか。ユースケは、初めて襲われる感情にすっかり翻弄されていた。そんな自分が情けなくて仕方がなかった。
「リュウト……振られた男が女々しいよ」
「……なあチヒロ、何してんだよ。俺は無理によりを戻そうとしに来たわけじゃない。ただ、何をしてるのかを訊きに来たんだ」
「……何それ、私にはもう未練はないってわけ? それはそれでちょっとムカつくんだけど」
チヒロは分かりやすい。ユースケたちの前で見せた無邪気さも、リュウトの前では決して見せなかった、ユースケが時々見てきたあの睨むような険悪な表情も、すべてチヒロの本音なのだ。今も、チヒロの声は、その突き放すような話し方に反して既に涙声であった。
「何も分からないまま別れるなんて嫌なんだ。俺は、お前のこときちんと理解してからじゃないと前に進めないんだ。なあ、どうして、こんな真似……」
「うっさいよ! もう構わないでよ!」
チヒロはヒステリックにそう叫ぶも、どこかへ去っていく気配はなかった。ユースケも、何とか足を動かせるほどには落ち着いてきたが、それでもとても口を挟む余裕はなかった。
リュウトと一緒に並び立つ。目の前に立つチヒロは、フローラの言っていた通り銀髪のショートヘアであったが紛れもなくチヒロ本人であり、ひどく傷ついた顔で、ユースケやユキオのことなど目にも入らぬ勢いでリュウトのことを睨んでいた。
「チヒロが嫌なら、俺ももうチヒロの前には姿を現さないから。だからせめて、どうしてかえで倶楽部で働き始めたのかを教えて欲しい」
リュウトはそのチヒロの気迫にも負けずに問いかける。チヒロがわなわなと肩を震わせている横で、フローラが困惑した顔で皆の顔を見渡す。ユースケと目が合い、ユースケがそっと首を横に振ると、フローラも何かを察したのか、チヒロを見守るように半歩下がった。
「リュウトも知ってるくせに! 私は一刻も早く実家と縁を切って、アイツらの知らない場所で暮らしたいんだって! そのために、お金が必要なんだって!」
「……だったら他の人と……誰か別の人と付き合うことだって、チヒロには出来たはずじゃ」
「あんたのことが本気で好きだったからに決まってるじゃない!」
チヒロの叫びが、寒空の下、虚しく響いた。ユースケの胸にすらその叫びに痛みが走ったのだから、リュウトにとってその叫びはどれほどの威力だったのだろうか、ユースケには想像もつかなかった。その言葉は予想外だったのか、リュウトは目を見開いたままチヒロからその瞳を離せないでいた。くしゃっと歪んだチヒロの表情は、普段やりすぎなほどに施されている化粧が微塵もされていないにもかかわらず、綺麗だった。