第6話
文字数 3,223文字
ユリが微笑みながら、ユースケにそのリンゴを食べるように言った。ユースケは食欲がしないと頑なだったが、今回はユリも頑固らしく、しつこくユースケに食べるように言ってきたので、弱っていたユースケは折れてリンゴを食べることにした。しかし、ユースケが実際に果物ナイフを手に持ってリンゴの皮を剥こうとすると、「危ないから、ちょっとそれ貸して」とユリに怒鳴られ、何故か病人のユリがリンゴを剥く羽目となっていた。ユリは器用に皮を剥いた後、食べやすい形に切りわけ、ユースケが持っている果物ナイフが入っていたケースの中に置いていった。ご丁寧にうさぎの耳の形をした皮が残っていた。
「早く食べて元気だしなってお兄ちゃん」
「……何で俺が慰められっぱなしになってるんだろ」
「そりゃあ、お兄ちゃんが情けないからでしょ」
ユリにあまりにもあっさりそう言われ、ユースケは深くため息をついた。ユリはふふっと声を漏らしながら微笑み、次々とユースケの持っているケースにリンゴを敷き詰めていき、あっという間にユリの手元からリンゴがなくなった。一つや二つなら可愛いうさぎのリンゴであるが、溢れかえりそうなぐらい何体も積み重なると一気に気味悪くなった。ユースケは非情にもそのうさぎのリンゴを口に放った。むしゃむしゃと食べる咀嚼音がユリの病室に響いた。
「でも安心したよ。お兄ちゃん、やっぱりお兄ちゃんだもん。最近ようやく勉強頑張るようになってさ、それで何だか急に違うお兄ちゃんになっちゃったのかなって、ちょっと……」
ユリはそこで言葉を詰まらせた。続きの言葉を待っていたユースケは早くも三体目のうさぎのリンゴを口にしたところでユリの方を振り返ると、ユリが果物ナイフも布団の上に置いて顔を俯かせていた。ユースケはケースもほっぽり出して、ユリの身体に近づいて顔色を窺おうとした。しかし、ユースケの慌てぶりも杞憂で、ユリは俯いたまま、何かを堪えるように歯を見せながらも、小さく笑っているだけだった。ユースケが覗き込んでいることに気がついたユリは、顔を手で覆いながら「早く食べなよ」と言って顔を逸らした。
あっという間にユースケはリンゴを食べ終え、皮ごと果物ナイフをケースに入れてリュックにしまい、今度こそ寝袋を広げていると窓の外はすっかり暗くなっていた。寝袋を床に敷いたは良いものの、横になる気分にはなれず、椅子に座ってユリの様子を見守り続けた。ユリはご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、看護師に持ってきてもらった本を読んでいた。ユリの左腕に刺さっている注射針は相変わらず傍らの点滴袋と繋がっており、見ていて痛ましかった。
「お兄ちゃん、明日は学校どうするの」
「行かないに決まってる」
「決まってるんだ……」
ユースケの言葉に、ユリは呆れていたものの賛成とも反対とも言わずに、その後も黙々と本を読み続けた。本の内容は緩い感じの小説らしく、ときおり愉しそうに身体を揺らしてくすくすと笑っている。アカリといいユリといい、女子はそんなにも小説というものが好きなのかとユースケは不思議に思った。ユースケは寝袋以外に何も持ってきてはいなかったが、そんなユリの様子を眺めているだけで時間の流れも気にならなかった。時折ユリがユースケのことを横目で見るが、ユースケは意味深に頷くだけで何も言わず、ユリもそれを見て特に反応することなく本に視線を戻す。
そうして穏やかに時間が過ぎていき、やがて消灯の時間が迫っているのを知らせるアナウンスが流れた。ユリはぱたりと本を閉じ、傍らの机にその本を置いて布団に潜り込むようにして横になった。顔だけ覗かせるような格好で、ユリは感情の読めない色をした瞳で天井をぼんやりと見つめていた。ユースケも立ち上がって、病室内の電気を操作するスイッチの前に立った。
「もう寝るか?」
「うん」
ユリは変わらず天井を見上げている。ユースケが天井のスイッチを切ると病室は真っ暗になるが、窓の向こうからほんのりと星明りが差し込んでいた。ユースケは窓の外の星を頼りに、ユリのベッドを刺激しないように慎重に歩きながら寝袋に辿り着き、慣れた動作で寝袋に潜り込む。
「お兄ちゃんさ、元気出してよ」
暗い室内で、ユリの声が響いた。ユースケは見知らぬ天井を見上げながら、見えないところから見知ったユリの声が聞こえるのが、何だか不思議な感じがした。
「何を言ってる。元気じゃないのは俺じゃなくてユリの方だぞ」
「……ううん、元気じゃないのはお兄ちゃんの方だよ」
ユースケの反論にも力がなく、ユリも普段のユースケが霊となって憑りついたように頑なだった。
「お兄ちゃんさ、勉強が無駄みたいなこと言ってたじゃん?」
「うん」
「無駄だなんてさ、言わないでよ。どうにかしたいと思って始めたことに、無駄なことなんてないからさ」
ユースケは起き上がってユリの顔を覗き込んでみたい気になったが、どうせまともに顔も見えないだろうし、覗こうとしたら布団の中に隠れて見せてくれないような気もして、静かにユリの言葉を聞くことにした。
「アカリさんに聞いたよ。惑星ラスタージアに行くって宣言したんでしょ? どういう経緯でそういう話になったかは知らないけどさ、きっとお兄ちゃんはふざけて言ってるわけじゃないんだよね?」
「俺はいつだって大真面目だからな。ふざけたことを言ったつもりは一度もねえぞ」
「うん。だからさ、頑張ってね。私応援してるし、信じてるから」
ユリの声は次第に涙ぐんでいった。ユリはそれを隠そうともせずに言葉を重ね続けた。
「お兄ちゃんは、たとえどこに行っても、ちょっと間抜けで、人想いで、頼りなさそうな姿をしてるけど、一生懸命何かのために頑張っている姿も変わらないんだろうなあって、信じられるから。だから、大学校に絶対行ってよね」
「……ああ、任せろよ。俺は真面目な上に頑固だからな。絶対大学校にも、惑星ラスタージアにも行ってみせるって」
ユリのその願いが、ユースケにはひどく寂しいもののように聞こえた。ユースケがそう答えて間もなく、ユリは寝息を立てた。穏やかで、すっかり怖いものなどないかのように聞こえる無防備なユリの寝息は、ユースケの耳にも心地良く、ユースケもあっという間に眠りに就いた。眠る直前、ユリの寝息を聞いたのは久し振りのことだなと思った。
翌朝、すっかりぐっすり眠ったらしく、鋭く差し込んでくる朝陽の眩しさにユースケが目を覚ますと、いつの間に来ていたのか、ベッドを挟んで向こう側にユズハが座ってユリと仲睦まじそうに話していた。夏の暑さもどこかへ消えて行ったことを示すように、ユズハの袖は腕を覆い手首まで長く伸びていた。ユースケが起きあがったのに気がついたユズハが「あんたやっぱり朝起きるの遅いじゃない」と早速ケチをつけてきた。寝惚けた頭ながら苦言を呈されムッとしたユースケは、すぐ近くにあるはずの椅子を手繰り寄せようとするも、手をいくら動かしてもその感触がなく、はっと思ってユズハの方を見ると、案の定ちゃっかりその椅子に座っていたのである。
ユリに言われて洗面所で顔を洗ったユースケは、寝惚けた頭も覚めてきて、病室に戻ってユズハの姿を確認すると、改めてユズハに驚いた。ユズハに胡乱な目つきで睨まれるが、ユースケとしてはてっきりユリの見舞いに一番最初に来るのはタケノリだと踏んでいたので、その予想を裏切ってユズハがやって来たことに驚いたのだった。
「まあ、このスカポンタンでも賑やかしぐらいにはなるでしょうねえ。ごめんねユリ、そろそろ行くね」
「うん、また来てねユズハ姉ちゃん」
ユズハはユリに小さく手を振って病室を去ろうとする。扉の前で立ち尽くしていたユースケを鬱陶しそうに手で払いながらも、目で「あの子とのこときちんと見てあげなさいよ」と訴えかけていそうな、やけに真面目な目をしていたのでユースケも先ほど受けた罵倒も忘れて神妙な面持ちで頷いた。
「早く食べて元気だしなってお兄ちゃん」
「……何で俺が慰められっぱなしになってるんだろ」
「そりゃあ、お兄ちゃんが情けないからでしょ」
ユリにあまりにもあっさりそう言われ、ユースケは深くため息をついた。ユリはふふっと声を漏らしながら微笑み、次々とユースケの持っているケースにリンゴを敷き詰めていき、あっという間にユリの手元からリンゴがなくなった。一つや二つなら可愛いうさぎのリンゴであるが、溢れかえりそうなぐらい何体も積み重なると一気に気味悪くなった。ユースケは非情にもそのうさぎのリンゴを口に放った。むしゃむしゃと食べる咀嚼音がユリの病室に響いた。
「でも安心したよ。お兄ちゃん、やっぱりお兄ちゃんだもん。最近ようやく勉強頑張るようになってさ、それで何だか急に違うお兄ちゃんになっちゃったのかなって、ちょっと……」
ユリはそこで言葉を詰まらせた。続きの言葉を待っていたユースケは早くも三体目のうさぎのリンゴを口にしたところでユリの方を振り返ると、ユリが果物ナイフも布団の上に置いて顔を俯かせていた。ユースケはケースもほっぽり出して、ユリの身体に近づいて顔色を窺おうとした。しかし、ユースケの慌てぶりも杞憂で、ユリは俯いたまま、何かを堪えるように歯を見せながらも、小さく笑っているだけだった。ユースケが覗き込んでいることに気がついたユリは、顔を手で覆いながら「早く食べなよ」と言って顔を逸らした。
あっという間にユースケはリンゴを食べ終え、皮ごと果物ナイフをケースに入れてリュックにしまい、今度こそ寝袋を広げていると窓の外はすっかり暗くなっていた。寝袋を床に敷いたは良いものの、横になる気分にはなれず、椅子に座ってユリの様子を見守り続けた。ユリはご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、看護師に持ってきてもらった本を読んでいた。ユリの左腕に刺さっている注射針は相変わらず傍らの点滴袋と繋がっており、見ていて痛ましかった。
「お兄ちゃん、明日は学校どうするの」
「行かないに決まってる」
「決まってるんだ……」
ユースケの言葉に、ユリは呆れていたものの賛成とも反対とも言わずに、その後も黙々と本を読み続けた。本の内容は緩い感じの小説らしく、ときおり愉しそうに身体を揺らしてくすくすと笑っている。アカリといいユリといい、女子はそんなにも小説というものが好きなのかとユースケは不思議に思った。ユースケは寝袋以外に何も持ってきてはいなかったが、そんなユリの様子を眺めているだけで時間の流れも気にならなかった。時折ユリがユースケのことを横目で見るが、ユースケは意味深に頷くだけで何も言わず、ユリもそれを見て特に反応することなく本に視線を戻す。
そうして穏やかに時間が過ぎていき、やがて消灯の時間が迫っているのを知らせるアナウンスが流れた。ユリはぱたりと本を閉じ、傍らの机にその本を置いて布団に潜り込むようにして横になった。顔だけ覗かせるような格好で、ユリは感情の読めない色をした瞳で天井をぼんやりと見つめていた。ユースケも立ち上がって、病室内の電気を操作するスイッチの前に立った。
「もう寝るか?」
「うん」
ユリは変わらず天井を見上げている。ユースケが天井のスイッチを切ると病室は真っ暗になるが、窓の向こうからほんのりと星明りが差し込んでいた。ユースケは窓の外の星を頼りに、ユリのベッドを刺激しないように慎重に歩きながら寝袋に辿り着き、慣れた動作で寝袋に潜り込む。
「お兄ちゃんさ、元気出してよ」
暗い室内で、ユリの声が響いた。ユースケは見知らぬ天井を見上げながら、見えないところから見知ったユリの声が聞こえるのが、何だか不思議な感じがした。
「何を言ってる。元気じゃないのは俺じゃなくてユリの方だぞ」
「……ううん、元気じゃないのはお兄ちゃんの方だよ」
ユースケの反論にも力がなく、ユリも普段のユースケが霊となって憑りついたように頑なだった。
「お兄ちゃんさ、勉強が無駄みたいなこと言ってたじゃん?」
「うん」
「無駄だなんてさ、言わないでよ。どうにかしたいと思って始めたことに、無駄なことなんてないからさ」
ユースケは起き上がってユリの顔を覗き込んでみたい気になったが、どうせまともに顔も見えないだろうし、覗こうとしたら布団の中に隠れて見せてくれないような気もして、静かにユリの言葉を聞くことにした。
「アカリさんに聞いたよ。惑星ラスタージアに行くって宣言したんでしょ? どういう経緯でそういう話になったかは知らないけどさ、きっとお兄ちゃんはふざけて言ってるわけじゃないんだよね?」
「俺はいつだって大真面目だからな。ふざけたことを言ったつもりは一度もねえぞ」
「うん。だからさ、頑張ってね。私応援してるし、信じてるから」
ユリの声は次第に涙ぐんでいった。ユリはそれを隠そうともせずに言葉を重ね続けた。
「お兄ちゃんは、たとえどこに行っても、ちょっと間抜けで、人想いで、頼りなさそうな姿をしてるけど、一生懸命何かのために頑張っている姿も変わらないんだろうなあって、信じられるから。だから、大学校に絶対行ってよね」
「……ああ、任せろよ。俺は真面目な上に頑固だからな。絶対大学校にも、惑星ラスタージアにも行ってみせるって」
ユリのその願いが、ユースケにはひどく寂しいもののように聞こえた。ユースケがそう答えて間もなく、ユリは寝息を立てた。穏やかで、すっかり怖いものなどないかのように聞こえる無防備なユリの寝息は、ユースケの耳にも心地良く、ユースケもあっという間に眠りに就いた。眠る直前、ユリの寝息を聞いたのは久し振りのことだなと思った。
翌朝、すっかりぐっすり眠ったらしく、鋭く差し込んでくる朝陽の眩しさにユースケが目を覚ますと、いつの間に来ていたのか、ベッドを挟んで向こう側にユズハが座ってユリと仲睦まじそうに話していた。夏の暑さもどこかへ消えて行ったことを示すように、ユズハの袖は腕を覆い手首まで長く伸びていた。ユースケが起きあがったのに気がついたユズハが「あんたやっぱり朝起きるの遅いじゃない」と早速ケチをつけてきた。寝惚けた頭ながら苦言を呈されムッとしたユースケは、すぐ近くにあるはずの椅子を手繰り寄せようとするも、手をいくら動かしてもその感触がなく、はっと思ってユズハの方を見ると、案の定ちゃっかりその椅子に座っていたのである。
ユリに言われて洗面所で顔を洗ったユースケは、寝惚けた頭も覚めてきて、病室に戻ってユズハの姿を確認すると、改めてユズハに驚いた。ユズハに胡乱な目つきで睨まれるが、ユースケとしてはてっきりユリの見舞いに一番最初に来るのはタケノリだと踏んでいたので、その予想を裏切ってユズハがやって来たことに驚いたのだった。
「まあ、このスカポンタンでも賑やかしぐらいにはなるでしょうねえ。ごめんねユリ、そろそろ行くね」
「うん、また来てねユズハ姉ちゃん」
ユズハはユリに小さく手を振って病室を去ろうとする。扉の前で立ち尽くしていたユースケを鬱陶しそうに手で払いながらも、目で「あの子とのこときちんと見てあげなさいよ」と訴えかけていそうな、やけに真面目な目をしていたのでユースケも先ほど受けた罵倒も忘れて神妙な面持ちで頷いた。