第1話
文字数 2,756文字
まだ暑さのはっきりしない朝日を浴びながら、ユースケは頬杖を突いて窓から巨大な機体を眺めていた。弱々しい風がユースケの短い髪を撫でた。
機体は飛行機と呼ばれていたものらしく、かつての人間は飛行機に乗って空を移動していたのだと、亡くなった祖母からよく聞かされていた。祖母も乗ったことはないはずなのに、その話をするときは決まって懐かしそうに遠くを見つめていたのがユースケには印象深かった。
今では祖母の語る栄光の面影もなく、蔦やら苔やらがびっしり張り付いており、とても飛行機に乗って空を飛んでいきたいという気にはならなかった。しかしユースケは、役目を終えてもなお残り続けるその機体から寂しさや虚しさといったものは感じていなかった。むしろ、ある日突然、機体にまとわりついた緑の衣を取っ払い、再び空を元気に羽ばたくような期待すら持っていた。
「朝ご飯出来てるわよー! 早く来なさーい」
「はいはーい」
高まる期待感を母親のたった一声でかき消され、ユースケはムスッとしながら窓を離れた。
今日の授業を壁に乱暴に貼られた時間割で確認しながら、手提げに筆記用具やら教科書やらを詰め込んでいく。その後、部屋に散らかってる服を適当に選んで着替えた。部屋を出る直前に、開けっ放しになっていた窓のことを思い出しUターンしたが、床に散らばっている服や使わない教科書のせいでぎくしゃくした動きになってしまい、無駄に伸びた体が左右に揺れ、何とかバランスを立て直そうとし、時につんのめりながらも窓にたどり着いた。窓を閉めた途端、わずかに感じていた風も感じられなくなった。
欠伸をしながら部屋を出ると、玄関に見慣れた幼馴染み、ユズハの顔を発見する。今日も不機嫌そうな顔でユースケを睨んでくる。ユースケの背が異様に高いからまだ良いようなものの、ユズハも女性の割に身長が高いのでそんな風に睨まれると大抵の男子は怯む。
「貴方って、いつまで朝起こしてもらってるの」
「起こしてもらってない。飯に呼ばれただけだ」
「呼ばれるまで部屋から出ないんじゃあ、変わらないじゃん」
「いや、だから起きてるって。全然違うから」
「もっとお母さん手伝うとかさあ、幼馴染み待たせないように急ぐとかさあ。なんで毎日毎日遅れるの」
「分かった分かった。飯食ってくるから待ってろって」
ユズハの口うるささは一度始まったらなかなか終わらないことをユースケは、文句を言い続けるユズハを後にして踵を返した。睨んでくる視線を後頭部に感じながらユースケはリビングに向かう。
ユズハは隣の家に住んでいる幼馴染みで、ユースケが物心ついた頃には既に隣にユズハがいるような状況だった。ユースケとユズハの家以外に周囲に人はおらず、乾涸 らびた飛行機がぽつんとあるだけで、後は田園風景と森と山が広がっているだけの世界だった。
ユズハも小さい頃はユースケと仲睦まじく朗らかに遊んでいたものだが、大きくなり、教育機関である学校に通い始め、ユースケ以外の人間とも関わるようになってくると、次第にユズハはユースケの世間離れしたのんびりさ加減に気がつき始めた。十七歳になった今では毎日のようにユズハが連れ出さないとユースケは平気で遅刻して来る。
リビングに入ると、母親はまだ台所で忙しそうに食器を洗っており、ユースケの気配を察知すると「早く食べなさいよ。いつまでユズハちゃん待たせるつもりよ」と振り返りもせずぶっきらぼうに言う。
「ユリは?」
「もうとっくに起きて田んぼに出てくれてるわよ」
「ふーん」
机の上には、醤油のかかった目玉焼きと新鮮さが分かるほど色の綺麗なレタスとトマト、艶々としている白米、そして人工のベーコンが並べられていた。向かいの席にはチラシが置いてあった。
「いただきまーす」
食器の重なる音を聞きながらユースケはマイペースに手を合わせてそう言うと、待たせているユズハの存在を忘れたかのようにゆっくりと食べ始めた。一つ一つを箸でつまんで口に運んでは向かいに広がっているチラシを眺めている。毎日きちんとしたご飯が食べられることに感謝してから食べること、という祖父の言葉と、慌てずゆっくり噛んで食べること、という祖母の言葉をユースケは律儀に守っていた。
毎朝届けられるチラシを眺めながらユースケがゆったり朝食を摂っていると、「早くしないと学校遅れちゃうってばー!」というユズハの怒鳴り声が玄関から聞こえてきた。
「このご時世にそれだけマイペースでいられるってのも、ある意味貴重な個性なのかもしれないわね」
「逆に皆が慌てすぎにも思えるなあ」
「あんたはもうちょっと危機感を覚えるべきというか、ぼうっとしすぎっていうか、しっかりするっていう言葉を頭の辞書にたたき込むべきよ」
「そんなこと言われてもなあ……」
整備のされていない田んぼの脇道をのんびりと二人は歩いていた。道の先には森の壁が見えている。
最終的にリビングに怒鳴り込んできたユズハに急かされて朝食を済ませたユースケは、家を出て初めはユズハに手を引っ張られながら強引に走らされていたのだが、ユースケがあまりにも億劫そうな様子で走っているのでユズハも次第に走らせるのを諦め、仲良くユースケのゆったりとしたペースで並んで歩いていた。基本的にユースケの方が頑固であった。
ユズハは小石を蹴りながらため息をついた。
「まあ、あんたが良いなら私は構わないけどさ。後で泣きを見ない程度にはしっかりしときなさいよ」
「何を言ってるんだ。俺はいつでも今を第一に考えて生きてるぞ」
「だーかーら、その部分をもうちょっとだけ未来にも向けてねって言ってるの」
「だから、俺はそうせんと言っている」
「……心配している私がバカみたいだから、忘れましょ、この話題」
顔色一つ変えないユースケの様子を見て、ユズハはちまちま蹴っていた小石を一気に遠くまで蹴飛ばした。ころころと転がっていく小石の様子をユズハは立ち止まっていて見送っていた。ユースケもつられて立ち止まって小石の行方を見た。勢いのついた小石は、そのまま森の方に入っていくと、道を外れて暗い茂みの中に隠れていった。もう同じものを見つけてこいと言われても探し出せないだろう。
ユズハはわざとらしく咳払いをすると「あ、そーいえば」と言った。
「そろそろまたアレの時期になってきたけど、あんたとユリも夏行けるよね?」
アレの正体は、ユズハが毎回その話になると声のトーンを弾ませるのでユースケもすぐに分かった。ユースケにはユズハの見に行きたがる気持ちがイマイチよく分からなかったが、確かに見ていて綺麗なものではあったため、ユースケも嫌いではなかった。
「とりあえず見えるようになってから考えようぜ」
ユースケの煙たい返答に、ユズハは少しだけ頬を膨らませた。
機体は飛行機と呼ばれていたものらしく、かつての人間は飛行機に乗って空を移動していたのだと、亡くなった祖母からよく聞かされていた。祖母も乗ったことはないはずなのに、その話をするときは決まって懐かしそうに遠くを見つめていたのがユースケには印象深かった。
今では祖母の語る栄光の面影もなく、蔦やら苔やらがびっしり張り付いており、とても飛行機に乗って空を飛んでいきたいという気にはならなかった。しかしユースケは、役目を終えてもなお残り続けるその機体から寂しさや虚しさといったものは感じていなかった。むしろ、ある日突然、機体にまとわりついた緑の衣を取っ払い、再び空を元気に羽ばたくような期待すら持っていた。
「朝ご飯出来てるわよー! 早く来なさーい」
「はいはーい」
高まる期待感を母親のたった一声でかき消され、ユースケはムスッとしながら窓を離れた。
今日の授業を壁に乱暴に貼られた時間割で確認しながら、手提げに筆記用具やら教科書やらを詰め込んでいく。その後、部屋に散らかってる服を適当に選んで着替えた。部屋を出る直前に、開けっ放しになっていた窓のことを思い出しUターンしたが、床に散らばっている服や使わない教科書のせいでぎくしゃくした動きになってしまい、無駄に伸びた体が左右に揺れ、何とかバランスを立て直そうとし、時につんのめりながらも窓にたどり着いた。窓を閉めた途端、わずかに感じていた風も感じられなくなった。
欠伸をしながら部屋を出ると、玄関に見慣れた幼馴染み、ユズハの顔を発見する。今日も不機嫌そうな顔でユースケを睨んでくる。ユースケの背が異様に高いからまだ良いようなものの、ユズハも女性の割に身長が高いのでそんな風に睨まれると大抵の男子は怯む。
「貴方って、いつまで朝起こしてもらってるの」
「起こしてもらってない。飯に呼ばれただけだ」
「呼ばれるまで部屋から出ないんじゃあ、変わらないじゃん」
「いや、だから起きてるって。全然違うから」
「もっとお母さん手伝うとかさあ、幼馴染み待たせないように急ぐとかさあ。なんで毎日毎日遅れるの」
「分かった分かった。飯食ってくるから待ってろって」
ユズハの口うるささは一度始まったらなかなか終わらないことをユースケは、文句を言い続けるユズハを後にして踵を返した。睨んでくる視線を後頭部に感じながらユースケはリビングに向かう。
ユズハは隣の家に住んでいる幼馴染みで、ユースケが物心ついた頃には既に隣にユズハがいるような状況だった。ユースケとユズハの家以外に周囲に人はおらず、
ユズハも小さい頃はユースケと仲睦まじく朗らかに遊んでいたものだが、大きくなり、教育機関である学校に通い始め、ユースケ以外の人間とも関わるようになってくると、次第にユズハはユースケの世間離れしたのんびりさ加減に気がつき始めた。十七歳になった今では毎日のようにユズハが連れ出さないとユースケは平気で遅刻して来る。
リビングに入ると、母親はまだ台所で忙しそうに食器を洗っており、ユースケの気配を察知すると「早く食べなさいよ。いつまでユズハちゃん待たせるつもりよ」と振り返りもせずぶっきらぼうに言う。
「ユリは?」
「もうとっくに起きて田んぼに出てくれてるわよ」
「ふーん」
机の上には、醤油のかかった目玉焼きと新鮮さが分かるほど色の綺麗なレタスとトマト、艶々としている白米、そして人工のベーコンが並べられていた。向かいの席にはチラシが置いてあった。
「いただきまーす」
食器の重なる音を聞きながらユースケはマイペースに手を合わせてそう言うと、待たせているユズハの存在を忘れたかのようにゆっくりと食べ始めた。一つ一つを箸でつまんで口に運んでは向かいに広がっているチラシを眺めている。毎日きちんとしたご飯が食べられることに感謝してから食べること、という祖父の言葉と、慌てずゆっくり噛んで食べること、という祖母の言葉をユースケは律儀に守っていた。
毎朝届けられるチラシを眺めながらユースケがゆったり朝食を摂っていると、「早くしないと学校遅れちゃうってばー!」というユズハの怒鳴り声が玄関から聞こえてきた。
「このご時世にそれだけマイペースでいられるってのも、ある意味貴重な個性なのかもしれないわね」
「逆に皆が慌てすぎにも思えるなあ」
「あんたはもうちょっと危機感を覚えるべきというか、ぼうっとしすぎっていうか、しっかりするっていう言葉を頭の辞書にたたき込むべきよ」
「そんなこと言われてもなあ……」
整備のされていない田んぼの脇道をのんびりと二人は歩いていた。道の先には森の壁が見えている。
最終的にリビングに怒鳴り込んできたユズハに急かされて朝食を済ませたユースケは、家を出て初めはユズハに手を引っ張られながら強引に走らされていたのだが、ユースケがあまりにも億劫そうな様子で走っているのでユズハも次第に走らせるのを諦め、仲良くユースケのゆったりとしたペースで並んで歩いていた。基本的にユースケの方が頑固であった。
ユズハは小石を蹴りながらため息をついた。
「まあ、あんたが良いなら私は構わないけどさ。後で泣きを見ない程度にはしっかりしときなさいよ」
「何を言ってるんだ。俺はいつでも今を第一に考えて生きてるぞ」
「だーかーら、その部分をもうちょっとだけ未来にも向けてねって言ってるの」
「だから、俺はそうせんと言っている」
「……心配している私がバカみたいだから、忘れましょ、この話題」
顔色一つ変えないユースケの様子を見て、ユズハはちまちま蹴っていた小石を一気に遠くまで蹴飛ばした。ころころと転がっていく小石の様子をユズハは立ち止まっていて見送っていた。ユースケもつられて立ち止まって小石の行方を見た。勢いのついた小石は、そのまま森の方に入っていくと、道を外れて暗い茂みの中に隠れていった。もう同じものを見つけてこいと言われても探し出せないだろう。
ユズハはわざとらしく咳払いをすると「あ、そーいえば」と言った。
「そろそろまたアレの時期になってきたけど、あんたとユリも夏行けるよね?」
アレの正体は、ユズハが毎回その話になると声のトーンを弾ませるのでユースケもすぐに分かった。ユースケにはユズハの見に行きたがる気持ちがイマイチよく分からなかったが、確かに見ていて綺麗なものではあったため、ユースケも嫌いではなかった。
「とりあえず見えるようになってから考えようぜ」
ユースケの煙たい返答に、ユズハは少しだけ頬を膨らませた。