第5話

文字数 3,288文字

 商店街の中でもひときわ大きな建物が、ユースケたちの住む地域における唯一の病院である。過去の大戦にて戦勝国側となっている望遠国は、それなりに裕福な国となっており、そのときから今に至るまで医療機関に対しても十分な資金が投入されている。そのおかげで、大規模な大戦にて大幅に失われた医療技術も着々と復活してきているのだが、それ以上に放射線の影響が強く、人類全体は虚弱体質気味になったり、遺伝病の件数が以前よりも遥かに増し、医療技術の復興や革新も追いつかないほどになっている。ユリも極度の虚弱体質として生まれてきて、学校に通うのも困難とされ、母親の手伝いを細々とする毎日であった。
「ええっと、肝臓は確か……尿を作ってるところか!」
「そうですね、今回はその肝臓で生み出される胆汁という消化液に関するお話です」
「……たんじゅう?」
 ユリが病室で眠りに就いている間、ユースケと母親は診察室でユリの状態について女性の医者から話を受けていた。ユースケが声を大きくして「尿」という単語を言った際には母親は思わず額に手を当て俯いていたが、医者は顔色一つ変えずに話を続けた。
「それに加えて、今回は心臓も心配です。不整脈を起こしていたみたいです」
「……心臓は、血液を循環させるところ」
「その通りです」
 ユースケの呟きも聞き逃さず、医者は懇切丁寧にユリの容体について説明してくれた。しかしその丁寧さが、却ってユースケの不安を煽っていた。ただでさえ虚弱体質だったユリは、元から弱かった心臓の機能がさらに弱まっているという。それによって貧血気味であった状況に、胆汁という消化液の合流異常というものが重なってしまったらしい。白目の部分が黄色くなってしまっていたのはそのせいらしいのだが、ユリが再び倒れてしまったという事実に動揺し、ユースケはしっかり話を聞いて理解しなければいけないと思っていたにもかかわらず、その詳しい内容がいまいち頭に入って来なかった。どこかでうっすらと手術という単語が聞こえてきて、そのときだけびくっとユースケの身体は反応したが、詳しい話はまた後日ということになり、ユースケの胸のうちに形の掴めない暗澹としたもやもやが身体を蝕むように巣食っていった。知っている単語が出てくると授業で学んだ内容を思い出し反応する、というのを繰り返す、そんな壊れた人形みたいになっているユースケに対して、医者は気の毒そうな瞳をして見つめていた。
「幸い最近は患者様もめっきり数を減らしていらっしゃいますので、何か気になることがあればすぐにでも承ります。何度でも説明しますので、遠慮せずにお呼びください」
 医者のそんな優しい言葉に見送られて、ユースケと母親はユリの病室に向かった。ベッドの上で首元まで白い布団を覆って眠るユリの寝顔は、真っ青だった顔色も戻っており、穏やかに寝息を立てていた。その布団の脇から、一本の管のようなものが伸びており、それはベッドの傍らに鎮座している点滴袋へと通じていた。ユースケと母親は、ユリの眠るベッドの横に椅子を用意して、見守るようにして座った。胸のうちで蠢いているもやもやした何かを吐き出したくてしょうがなかったが、少しでも物音を立てれば静かに眠っているユリを起こしてしまいそうな気がして、ユースケは唇をきつく結んで無言のままユリの寝顔を見続けた。
 ユリの寝顔が一切変わらぬまま、夕陽が窓から差し込んできてユースケの影がユリの布団の上に伸びていた。横に座る母親がそっと立ち上がった。
「あたしは帰ってお父さんに連絡したり明日の準備したりするから帰るけど、ユースケはどうする?」
「このままここにいる」
「分かった。病院の人に伝えておくから、ユースケはそのままユリのことを見ていてあげて」
 ユースケがあっさり即答したのを聞いて、母親は頷いて、そのまま病室を静かに出て行った。ユースケの予感通り、母親のそのわずかな物音に応じたかのようにユリはそっと目を細く開けた。ユースケは抱き寄せたい衝動を必死に抑えて、身体だけ前のめりにしてユリの顔色を窺う。
「どうだ、体調は」
「うーん、まだちょっとぼうっとするけど、まあ大丈夫かな」
 ユースケの胸中の想いも肩透かしするほど、ユリはあっさりした軽い口調で淡々と答えた。ユリは昔から自分の身体が悪いことで元気を失くしたり気落ちしたりすることはなかった。ユースケはユリの頭に手を伸ばそうとするが、先ほど医者が出した手術という単語が頭を過り、急に思い詰めたような顔になってその手を引っ込めて、静かに項垂れた。ユリも頭を撫でられる心構えになっていたのか、ユースケが手を引っ込めるのを気の毒そうに眺めていた。
「何でお兄ちゃんがそんなに辛そうな顔してんの。私は大丈夫だから」
「はああ……お兄ちゃん、やっぱりバカかもしれん」
「まあ、それは知ってたよ」
 ユリがそう茶化すも、ユースケは顔を良くすることはなく、項垂れたまま手をもじもじさせた。その素振りにユリはますます心配になってユースケを懸命に見つめる。
「俺、勉強すれば人のことどうにか出来るようになるって思ってたけどさ、授業で学んだこと、ユリの身体には何にも生かせそうにないや」
 そのとき、ガラッと扉の開いて看護師が入ってきた。点滴袋を確かめ、次にユリに身体の調子を訊くと、ユリは先ほどと同じような調子で答えた。続いて看護師はユースケに対して「今日はここで泊まれるということですが、何かこちらで準備することは出来ませんので寝具の持ち込みなどは後程ユースケ様自身が為さるようお願いします」と丁寧に申し立ててきた。ユースケは鈍い動きながらも小さく頷くと、看護師も柔らかく微笑んで病室を去っていった。ユースケは看護師が去った後の扉をぼうっと見つめていた。
「あの人に、どういうことしてきたか聞けばよかった」
「どうして?」
「だって、あの人はユリの力になってるじゃないか」
 ユリはユースケと看護師が去った後の扉を交互に見つめ、ため息をついた。ユースケは間抜けな感じで口を開けて呆けたまま、看護師の言っていた言葉を思い出し、「俺一旦家に寝袋とか取ってくるわ」と随分沈んだ声で呟いた。ユリがいつもと変わらない調子で明るく「いってらっしゃーい」と言うが、ユースケは片手を小さく挙げただけで、呆けた口のまま病室を出た。
 家までの帰り道、ユースケは急に虚しい気分になって、このまま地面に横になりたい欲に駆られたが、病室で一人ぼっちでベッドに横になることしか出来ないユリの姿を思い出し、遅い歩みながらも家へと向かった。夕陽で長く伸びた影を追いかけるように歩いていると、森に入ったところでその影もくしゃくしゃになり、樹の根に躓かないようにさらに遅い歩みとなった。家に帰っても母親に何も言わずに寝袋を用意し、それをリュックに無理やり詰め込んで、結局一言も会話することなく家を出た。出て行く様子を母親はじっと見守っていたが、ユースケは珍しくその気配に気づかなかった。
 病院の廊下を歩いている間も、ユースケは、これも何か夢を見ているだけであって実際はユリには何も起きておらず、ただ貧血でちょっと倒れただけなのではないかという気がしてきた。しかし、ユリの病室に訪れると、数十分前までに見た光景と同じように、ユリはベッドの上で痛ましい姿で横になっていた。本人の顔色が良いことだけが、唯一の救いだった。
「おかえり、お兄ちゃん」
 ユリはユースケの姿を確認すると、少しだけ身体を起こして、ベッドの背にもたれかかるようにした。その動作をしっかりと見守ってからユースケも「ただいま」と答えた。
 ユースケはそれっきり何も言わず、そそくさとリュックから寝袋を取り出した。すると、寝袋を取り出した拍子にリンゴが一個、リュックから飛び出して床を転がっていった。ユースケはそのリンゴを睨みながら、半信半疑でリュックの中を手で探ると堅い感触がして、それを取り出すと小さなケースが出てきた。頑丈に閉じられているのを開けると、中から小さな果物ナイフが出てきた。
「母さんも気が利くね」
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登場人物紹介

ユースケ

主人公。能天気で素直な性格。生まれつき体の弱い妹のユリを溺愛する。

ユズハ

ユースケの幼馴染み。ユースケと違って真面目なしっかり者。

ユリ

ユースケの妹。体が弱く学校に通えず、母親の手伝いをして過ごしている。

タケノリ

ユースケやユズハの幼馴染み。フットサル部に所属する好青年。

カズキ

ユースケたちの友達。ユースケと並んで成績が悪いお調子者。

セイイチロウ

ユースケたちの友達。長身ながら臆病者。ユズハに好意を寄せている。

アカリ

ユースケたちと幼馴染みでユズハの親友。ユースケに好意を寄せる。

ユミ

ユースケたちの同級生で学年一の成績を誇る。

リュウト

ユースケと同期のイケメン枠。工学府に所属する。

ユキオ

臆病でびくびくしている。ユースケ、リュウトと同じく工学府に所属する。

チヒロ

リュウトの彼女。友好関係が広い。社会開発学府に所属する。

フローラ

突如大学校の書店で働き始めたブロンドヘアの美女。

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