第8話

文字数 3,043文字

 安めの定食屋で腹を満たして、ユースケは気を取り直して、先ほどと同じ場所で「かえで倶楽部」の監視を再開した。ナオキはユースケがどこの店を監視しているのかすら知らなかったが、気にもなって尋ねたらそれこそユースケの勢いに乗せられると判断して、黙々と手帳を開いて作業を進めていた。しかし、さらに時間が経ち、陽も低くなってきて日陰のせいで明るさが足りなくなってきたので、ナオキは手帳を閉じて自転車に乗る。
「なあ、別にストーカーするのは構わねえんだが、もうちょっと明るいところに行かねえか?」
「え~……『かえで倶楽部』が見えるところでお願いな」
「え、『かえで倶楽部』? お前、あの店見てたのかよ」
 ナオキが素っ頓狂な声を出すもので、ユースケも思わず振り返る。すると、ちょうど「かえで倶楽部」とは反対の方角から例の女性がこちらに歩いてきているのが見えた。ただ歩いているだけなのにその佇まいがあまりにも堂々としてクールなものだから、まるでモデルのような風格があり、そのスタイルの良さと望遠国では見慣れない風貌にすれ違う人たちもちらちらと盗み見ていた。ユースケはああだこうだと何か文句らしきものを垂れているナオキをどかしてその女性の方へ駆けつけた。
「す、すみません! あの、一緒にどこか遊びに行きまっ、うげっ!」
 勢いよく自分の方に向かってくる高身長の男など、いかにひょろそうに見えてもそれは恐怖対象でしかなく、女性は一瞬「ひっ」と悲鳴を上げたかと思うと、ユースケの顔を憶えていたのか「またお前か」とでも言いたげな憎々しい表情に変貌し、やがてすぐそばまで迫ってきたユースケを勢いに乗せて投げ飛ばしていた。
「次またここで会ったら警察呼ぶからっ」
 舌打ちし、そのまま唾でも吐きかねない勢いでそう言うと、女性はそのまま去っていった。地面に伏したままのユースケは、去っていく女性の背中を見送ることしか出来なかった。その女性が去ってから、遅れてナオキがユースケの元へやって来た。制止も振り切って飛び出したのはユースケ自身ではあるが、投げ飛ばされた痛みが背中にじんわりと広がってきて、何で止めてくれなかったんだよと文句をつけたくなり、自分勝手ながらナオキが薄情者に見えてきた。
「お前、怖いよ。一瞬警察呼ぼうか迷っちまったぐらいだぜ」
 ナオキが呆れたようにため息をつくが、心なしかその声音は柔らかかった。ユースケもよろよろと立ち上がって、路地裏に止めていた自転車を取りに戻る。
「とりあえず今日は帰ろうぜ。あの様子じゃ、次は本当に警察呼ばれるぞ」
 ナオキが肩をポンと叩く。「というか、俺が呼ぶかもしれん」と付け足したナオキの肩を小突き返して、ユースケはナオキと一緒に大学校に戻っていった。最後にもう一度「かえで倶楽部」を見やるが、扉は堅く閉ざされていた。

 コの字に並べられた席の内、ユースケは一番隅の席に座ってモニターに映し出されたスライドと、手元の印刷された資料と論文とを見比べながら、ノートにメモしていた。モニターの脇にある小さな壇上には、一学年上である、背の小さなアンズが懸命に背筋を伸ばして、モニターの画面を指差しながら説明していた。狙っているのかいないのか、背伸びをするとわずかにへそを覗かせ、その度にユースケの向かいに座るノリアキの軽薄そうな視線がまっすぐそこに向けられる。
 若干たどたどしく、途中で詰まるところもあったが最後まで論文紹介のプレゼンをし終えて質疑応答の時間となった。早速とばかりにレイが質問をしている。ユースケも質問の内容がどういうものかを確認するように資料と論文、そしてノートのメモを見比べる。レイの質問にユースケも「確かに」と内心頷き、その質問内容も念のためにメモしておく。アンズも困ったようにあたふたしながらも説明していく。ユースケとしては、まだ研究室に配属されたばかりだからなのか、紹介される論文の内容もチンプンカンプンな状態であるうえに、何を質問すれば自分の理解が深まるのかも分からないため、途方に暮れかける時間であったが、先生やレイの質問はそんな自分でもとっつけるほど簡略化され、かつ鋭いものであったため、何とか参加しているという気になれた。
 研究室では週に一度、ゼミという会議のようなものが行われ、そこでは新規の内容や研究室にとって有意義になりそうな論文の紹介と、何人かの研究進捗の報告が行われる。発表するメンバーは一か月前から決まるらしく、そこから研究と並行してその発表のための資料を作らなければならない。研究室に配属されて半年は番が回って来ないものの、初めてのゼミの論文紹介、進捗の報告のどちらもがレイの発表であり、その発表を聞いたユースケはとても出来る気がしていなかった。
 研究室に配属されてから四度目のゼミも終わり、時刻も昼近くになっておりすっかりお腹の空いていたユースケだったが、相変わらず今日のゼミもほとんど内容を掴めず、そのことにわずかな危機感を覚えて、何かコツのようなものを教えてもらおうとレイの後をついて行く。レイも背後に忍び寄る不審者めいたユースケの存在に気づきつつも無視していたが、ゼミ室から移り、廊下を渡り、研究室に戻って自分の席に着いても離れる気配のないユースケに、レイも渋々向かい合った。
「どうした。何か訊きたいことあるのか」
 レイは眠そうに目を擦りながら、隣にある椅子をそっとユースケの方に動かす。ユースケ以外の人たちは自分の席に荷物を置くとぞろぞろと研究室を出て行った。ユースケはありがたくその椅子に座る。
「はい、あの、ゼミについてなんですけど、内容に全然ついていけません。何が分からないのかすらよく分かっていません。どうしたら良いっすか」
「…………そうか」
 レイは腕を組んで、何やら考え込むように髪先を弄り始めた。普段はとろんとして全く覇気のない瞳だが、ゼミのときや実験のとき、そしてこうして何か考えているときになると、途端にその瞳に力が籠り、内に秘めるエネルギーのようなものが滲みだしていた。その瞳には確かに人を惹きつける何かがあり、見ていると吸い込まれていきそうな気持ちになり、ユースケは緊張してきた。
 しばらくすると、レイはおもむろにユースケのノートに手を掛けた。
「ちょっと貸せ」
 有無を言わせないその口振りに、ユースケが大人しくノートを貸すと、レイは交換するように自分のノートをユースケに差し出してきた。
「俺は説明するのが下手だからな。自覚してる。だから、何が分からないのか分からないなんて言われても俺には正直上手く教えてやれる自信がない。だから、お前のノートを見て、足りなさそうだと思ったことや、俺なりにどうすれば良いのかについて書いていく。その間、俺のゼミの分のノートでも見といてくれ。飯食いに行ってても良い。なるべく早く返すつもりだが、論文読んだり、俺以外の人の実験見るってときには途中でも一旦返す」
 レイは一息に説明すると、ユースケが何を言う暇もなく、早速ユースケのノートを開いて読み始めた。話がいきなりすぎて、しかも自分のノートをよりにもよってレイに見られるのが恥ずかしくて、ユースケは別の方法を提案しようとするが、レイはもうすっかり集中して芯の通った視線がまっすぐにユースケのノートに注がれていた。レイを取り巻く空気が一気に引き締まるのを感じて、これは邪魔してはいけないと思い、ユースケは頭を深く下げて、研究室を後にした。
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登場人物紹介

ユースケ

主人公。能天気で素直な性格。生まれつき体の弱い妹のユリを溺愛する。

ユズハ

ユースケの幼馴染み。ユースケと違って真面目なしっかり者。

ユリ

ユースケの妹。体が弱く学校に通えず、母親の手伝いをして過ごしている。

タケノリ

ユースケやユズハの幼馴染み。フットサル部に所属する好青年。

カズキ

ユースケたちの友達。ユースケと並んで成績が悪いお調子者。

セイイチロウ

ユースケたちの友達。長身ながら臆病者。ユズハに好意を寄せている。

アカリ

ユースケたちと幼馴染みでユズハの親友。ユースケに好意を寄せる。

ユミ

ユースケたちの同級生で学年一の成績を誇る。

リュウト

ユースケと同期のイケメン枠。工学府に所属する。

ユキオ

臆病でびくびくしている。ユースケ、リュウトと同じく工学府に所属する。

チヒロ

リュウトの彼女。友好関係が広い。社会開発学府に所属する。

フローラ

突如大学校の書店で働き始めたブロンドヘアの美女。

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