第6話
文字数 2,744文字
「いや~、でもあの人、もうすでに何人かがアタックしているみたいだけどデートすらありつけず全滅だっていう噂でっせ」
「うるさい、俺には関係ないことだ。俺はただ、あの子のことを遠くから見ているだけで幸せになれるんだい」
「それ嘘だろユースケ」
ユースケたちは寮が貸し出している自転車を借りて大学校の外に出ていた。望遠大学校の敷地は下手な街——それこそユースケの実家のあった街——よりも広く、大学校の外に出るだけでも自転車が必要であった。せっせと漕いで大きな門をくぐり抜けると、ユリの手術を行った街を彷彿とさせるほど賑やかな通りに出る。ユースケはその賑やかな街並みに目を奪われないように、前を走るリュウトたちの尻をひたすらに睨みつけた。
店がいっぱい立ち並んでいるくせに何を考えたのか、大きな噴水が窮屈に設置されている広場に出たところで、リュウトたちが漕ぐのを止めて自転車を押し始めたので、ユースケも降りてきょろきょろと辺りを見渡した。しかし、それらしい女性は見当たらない。
「おい、どこにいるんだよ」
リュウトも詳しいことは知らないのか、一緒にいた友人に尋ねるが「おっかしいなあ」と不思議そうに首を傾げていた。今目の前に見えている店の看板には「かえで倶楽部」とある。どういう店なのかユースケには見当がつかなかったが、滑らかでかっこいいフォントに、黒と金のコントラストが特徴的な豪華な装飾の看板に、とても本屋で働く女性店員とイメージが結びつかなかった。まったくどこにいるんだと文句を言おうとしたとき、リュウトと友人の先に、ブロンドヘアをした女性が残暑も厳しいというのに黒いジャケットを着た男性に絡まれているのが見えた。視力に自信のあるユースケは目を凝らして見るが、やはりその女性はユースケが会いたいと願っていた本屋の女性店員であり、自転車もほったらかしに一目散に駆けつけた。背後から自転車の倒れる派手な音とリュウトの「おい自転車倒すなよ」という制止しようとする声が聞こえてきたがすべて無視した。
男性とブロンドヘアの女性との間に、ユースケは身体を滑らせるようにして割って入った。急な横やりに男性は「ああん?」とガンを飛ばしてくるが、背だけは無駄に高いユースケが目つき悪く睨みつけるものだから男性も流石に怯んでいた。
「ちぇ、男付きかよ。危うく騙されるところだったぜ」
男性は情けなくも忌々しげな目つきでユースケを睨むと、呆気なくどこかへ去っていった。男付きと言われたことに心が浮ついて仕方なかったが、ユースケは何とかポーカーフェイスを決め込んで女性の方を振り返る。女性は、目深な帽子を外しているが紛れもなくあの本屋の店員であり、呆気にとられたようにぽかんと口を開けてユースケのことを見ていた。
「大丈夫でしたか? どこか怪我でも……ぐへっ!」
怖がらせないよう、なるべく穏やかに話しかけたつもりだったが、みるみるうちに女性の顔が嫌悪に歪んでいったかと思うと、一瞬視界が真っ白になり、気がつけば尻餅ついていた。何が起きたか分からず目をぱちくりさせると、左頬に熱と痛みが籠ってきて、ようやく自分はビンタされたのだと気がついた。「え、ビンタされたの?」と信じられない想いだったユースケが恐る恐る顔を上げると、そこには本屋で振り撒いていた柔らかく丁寧な笑みはどこにもなく、苦虫でも噛み潰したように憎々しくユースケを見下ろす女性の顔があった。しかし、何故だかそんな風に見下ろされてもユースケは何とも思っていなかった。
「ふざけないでよあんた。あーあ、せっかくの金づる逃がしちゃった」
降ってきた声は、その女性からは聞いたこともない、どすが効いていて低い声だった。女性は舌打ちしながらそのままユースケに背を向けて去っていった。何とか身体を起こすと、女性は呆然と立ち尽くしていたリュウトたちを睨みつけながら静かに「かえで倶楽部」の中へ入っていった。誰もが呆気に取られていた中、いち早く正気に戻ったリュウトが自転車を押しながらユースケに近づいてきた。
「あー……まあ、どんまい!」
リュウトがその爽やかな顔に似合った晴れやかな笑顔を無責任に向けてきた。リュウトに手を貸してもらって何とか立ち上がったユースケは、心ここにあらず、女性のことで頭がいっぱいだった。リュウトたちが慰めるように何か言っていたし、ユースケも振られたもクソもないほど脈ナシな反応をされたことを十分に承知していたにもかかわらず、自身でも困ったことに、自分でも頭がおかしくなったんじゃないかと思うほど、あの女性の一挙一動、すべての言動が可愛くてしょうがないと感じてしまっていた。
心惹かれる女性と衝撃的な邂逅を果たしてからというもの、ユースケは授業も研究室での活動も情けないほど身が入らなかった。本人としても雀の涙ほどにはやる気があるのだが、ふと油断すれば例の女性の見下ろしてきたときの嫌そうな表情や、普段本屋で蒔いている愛想笑いが頭をよぎり、想像力逞しいもので、すっかりその頭に思い描いた姿にメロメロになって手元も覚束なくなるほどだった。チヒロとユキオはリュウトから話を聞いているのか、ユースケがぼうっとする度にチヒロにはからかわれ、ユキオは黙ったまま心配そうにユースケの手元を見つめて何かやらかさないかとハラハラさせていた。
ちょうど大学校の外で女性と遭遇してから一週間後、ユースケは再びナオキの部屋の床に寝っ転がりながら小説を読んでいた。小説も中盤に差し掛かり、犠牲者がなんと四人も出てきたという衝撃展開にもかかわらず、物語に集中できず何度も何度も同じところを読み返していた。眉を顰めて睨みつけるように何度もページを行ったり来たりしているユースケの手元に、ベッドの上でペンを唇と鼻の間で挟みながら天井を睨み上げていたナオキがガバッと身体を起こした。
「おい、何かおかしなところあったか?」
「んー……いやーないよー……」
本当なら、こんなにばんばん人が多く死ぬ展開に何か言うことがあったような気もするが、ユースケはすっかり例の女性のことで頭がいっぱいだった。小説に出てくる女性の登場人物すべてが脳内で例の女性に置き換わる始末である。
「じゃあなに何度も同じところ読み返してんだよ。ぺらぺら捲る音がうるせー」
「……それ、初めての読者に対する作者の言うセリフかね」
「お前が勝手に読んでるだけだろ」
ナオキは心外とでも言いたげに鼻息荒くしてユースケから小説を取り上げようとする。流石のぼうっとしていたユースケも小説を取られまいと右へ左へと身体を転がしてナオキの手を躱す。いくらか攻防が繰り広げられた後、ナオキが諦めたようにふんっと鼻を鳴らしてベッドの上に転がった。
「うるさい、俺には関係ないことだ。俺はただ、あの子のことを遠くから見ているだけで幸せになれるんだい」
「それ嘘だろユースケ」
ユースケたちは寮が貸し出している自転車を借りて大学校の外に出ていた。望遠大学校の敷地は下手な街——それこそユースケの実家のあった街——よりも広く、大学校の外に出るだけでも自転車が必要であった。せっせと漕いで大きな門をくぐり抜けると、ユリの手術を行った街を彷彿とさせるほど賑やかな通りに出る。ユースケはその賑やかな街並みに目を奪われないように、前を走るリュウトたちの尻をひたすらに睨みつけた。
店がいっぱい立ち並んでいるくせに何を考えたのか、大きな噴水が窮屈に設置されている広場に出たところで、リュウトたちが漕ぐのを止めて自転車を押し始めたので、ユースケも降りてきょろきょろと辺りを見渡した。しかし、それらしい女性は見当たらない。
「おい、どこにいるんだよ」
リュウトも詳しいことは知らないのか、一緒にいた友人に尋ねるが「おっかしいなあ」と不思議そうに首を傾げていた。今目の前に見えている店の看板には「かえで倶楽部」とある。どういう店なのかユースケには見当がつかなかったが、滑らかでかっこいいフォントに、黒と金のコントラストが特徴的な豪華な装飾の看板に、とても本屋で働く女性店員とイメージが結びつかなかった。まったくどこにいるんだと文句を言おうとしたとき、リュウトと友人の先に、ブロンドヘアをした女性が残暑も厳しいというのに黒いジャケットを着た男性に絡まれているのが見えた。視力に自信のあるユースケは目を凝らして見るが、やはりその女性はユースケが会いたいと願っていた本屋の女性店員であり、自転車もほったらかしに一目散に駆けつけた。背後から自転車の倒れる派手な音とリュウトの「おい自転車倒すなよ」という制止しようとする声が聞こえてきたがすべて無視した。
男性とブロンドヘアの女性との間に、ユースケは身体を滑らせるようにして割って入った。急な横やりに男性は「ああん?」とガンを飛ばしてくるが、背だけは無駄に高いユースケが目つき悪く睨みつけるものだから男性も流石に怯んでいた。
「ちぇ、男付きかよ。危うく騙されるところだったぜ」
男性は情けなくも忌々しげな目つきでユースケを睨むと、呆気なくどこかへ去っていった。男付きと言われたことに心が浮ついて仕方なかったが、ユースケは何とかポーカーフェイスを決め込んで女性の方を振り返る。女性は、目深な帽子を外しているが紛れもなくあの本屋の店員であり、呆気にとられたようにぽかんと口を開けてユースケのことを見ていた。
「大丈夫でしたか? どこか怪我でも……ぐへっ!」
怖がらせないよう、なるべく穏やかに話しかけたつもりだったが、みるみるうちに女性の顔が嫌悪に歪んでいったかと思うと、一瞬視界が真っ白になり、気がつけば尻餅ついていた。何が起きたか分からず目をぱちくりさせると、左頬に熱と痛みが籠ってきて、ようやく自分はビンタされたのだと気がついた。「え、ビンタされたの?」と信じられない想いだったユースケが恐る恐る顔を上げると、そこには本屋で振り撒いていた柔らかく丁寧な笑みはどこにもなく、苦虫でも噛み潰したように憎々しくユースケを見下ろす女性の顔があった。しかし、何故だかそんな風に見下ろされてもユースケは何とも思っていなかった。
「ふざけないでよあんた。あーあ、せっかくの金づる逃がしちゃった」
降ってきた声は、その女性からは聞いたこともない、どすが効いていて低い声だった。女性は舌打ちしながらそのままユースケに背を向けて去っていった。何とか身体を起こすと、女性は呆然と立ち尽くしていたリュウトたちを睨みつけながら静かに「かえで倶楽部」の中へ入っていった。誰もが呆気に取られていた中、いち早く正気に戻ったリュウトが自転車を押しながらユースケに近づいてきた。
「あー……まあ、どんまい!」
リュウトがその爽やかな顔に似合った晴れやかな笑顔を無責任に向けてきた。リュウトに手を貸してもらって何とか立ち上がったユースケは、心ここにあらず、女性のことで頭がいっぱいだった。リュウトたちが慰めるように何か言っていたし、ユースケも振られたもクソもないほど脈ナシな反応をされたことを十分に承知していたにもかかわらず、自身でも困ったことに、自分でも頭がおかしくなったんじゃないかと思うほど、あの女性の一挙一動、すべての言動が可愛くてしょうがないと感じてしまっていた。
心惹かれる女性と衝撃的な邂逅を果たしてからというもの、ユースケは授業も研究室での活動も情けないほど身が入らなかった。本人としても雀の涙ほどにはやる気があるのだが、ふと油断すれば例の女性の見下ろしてきたときの嫌そうな表情や、普段本屋で蒔いている愛想笑いが頭をよぎり、想像力逞しいもので、すっかりその頭に思い描いた姿にメロメロになって手元も覚束なくなるほどだった。チヒロとユキオはリュウトから話を聞いているのか、ユースケがぼうっとする度にチヒロにはからかわれ、ユキオは黙ったまま心配そうにユースケの手元を見つめて何かやらかさないかとハラハラさせていた。
ちょうど大学校の外で女性と遭遇してから一週間後、ユースケは再びナオキの部屋の床に寝っ転がりながら小説を読んでいた。小説も中盤に差し掛かり、犠牲者がなんと四人も出てきたという衝撃展開にもかかわらず、物語に集中できず何度も何度も同じところを読み返していた。眉を顰めて睨みつけるように何度もページを行ったり来たりしているユースケの手元に、ベッドの上でペンを唇と鼻の間で挟みながら天井を睨み上げていたナオキがガバッと身体を起こした。
「おい、何かおかしなところあったか?」
「んー……いやーないよー……」
本当なら、こんなにばんばん人が多く死ぬ展開に何か言うことがあったような気もするが、ユースケはすっかり例の女性のことで頭がいっぱいだった。小説に出てくる女性の登場人物すべてが脳内で例の女性に置き換わる始末である。
「じゃあなに何度も同じところ読み返してんだよ。ぺらぺら捲る音がうるせー」
「……それ、初めての読者に対する作者の言うセリフかね」
「お前が勝手に読んでるだけだろ」
ナオキは心外とでも言いたげに鼻息荒くしてユースケから小説を取り上げようとする。流石のぼうっとしていたユースケも小説を取られまいと右へ左へと身体を転がしてナオキの手を躱す。いくらか攻防が繰り広げられた後、ナオキが諦めたようにふんっと鼻を鳴らしてベッドの上に転がった。